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父が亡くなった夜、弟と思い出す家族旅行のこと 〜40年前、大分駅駐車場、早朝、日清カップヌードル〜


 
「1年に1回は2泊以上の旅を家族全員でする。」
50年前、結婚した両親の約束。
私たち家族は、父が運転するバスに乗って、あちこちへ旅した。
行き先は、バスガイドだった母が決めていた。
九州はあらゆるところへ、
中国地方は山陰まで、
大阪、京都、奈良、三重、滋賀…
ある時は、母の両親、兄弟まで合流し15人ほどになった旅もあった。


父が亡くなった2021年9月13日深夜、少しだけ1人になりたくて、外に出る。

タバコをくわえて弟がやってきた。
「姉ちゃん、何してんの?」
 のんきな声で話しかけながら、
私の隣りに立つ弟。
なんだか、色んな感情があふれる。

両親に愛されている跡取りの弟。
厳しく躾けられ、14歳から両親の前では話さなくなった弟。
「お姉ちゃんでしょ」と、何をするにも我慢、忍耐を強いられてきた私。
嫌いだったこともあった弟。

18歳で就職し、現在は自分のマイホームを建てた弟。
22歳で就職し家を出て、結婚。31歳で離婚して家に出戻ってきた私。
 
家の跡を取るという呪縛から、
軽々と抜け出した弟の代わりに、
お姉ちゃんの私は家の跡を取る。
親を介護する、看取る…。

2021年3月父は肝がんの転移で治療が継続できなくなった。
コロナで面会できなくなるのは嫌だとなり、自宅で看取ることとなった。
 
弟は再び、
父の前で話しをするようになった。
ふらっと訪ねてきて、「お父さん、具合はどう?」と声をかける弟。 
「ありがとうね。お前は元気にしているか。」と毎回同じ質問をしていた。
10分間ほど弟がベッドサイドにいる間、会話はそれだけだった。
 
弟が返った後、
「あいつもえらくなったもんやね~。自分の家を持つちゃっけん。俺もこの家を持った時、嬉しかったね~。貧しかったけん、高校もいかれんやったし、15歳から炭鉱で働いて、資格とって、バスの会社に勤めて。お母さんにバスの中で一目ぼれして。握手してくださいって、話しかけたもんね。そこからやんね、俺たちの家族がはじまったとは。」と、父は必ず、私たち家族の始まりの話をするのであった。
 そうやって2か月間、父は思い出話を繰り返した。
 
葬儀業者が来て、バタバタと事が進む。もう、私たちは用無しという感じ。事務的な話しばかりで、疲れる。
私と弟は夜空を見ながら、なんとなしにベンチに座った。

「ねえちゃん、俺たち家族ってさ、毎年旅行に行きよったよね。あれさ、偉いねって思うよ。」と弟が言った。
「家族旅行と言えばさ、何が一番覚えてる?俺が小学校の間までは続いたし。」弟が涙目になって聞いた。
 
やっぱり、我が家の食習慣を変えたあの出来事。
 
「軽自動車に布団積んで、九州一周したやん。その時、大分駅でカップヌードル食べたこと。」と私は答えた。
「手洗い場の水道で水を汲んで来いって言われた。まだ、薄暗かったよね。あれ、夜?朝?」と弟は言った。
「朝。カップヌードルを朝に食べた。それまで食べたことなかったから、よく覚えてる。」と私は言った。
「そう、初めて食べた。卓上コンロでお湯を母ちゃんが沸かしてさ。」と弟は嬉しそうに言った。
「あれからさ、日曜日の朝は150円ずつテーブルに置いてあって、好きなものを自分で買って食べて良いっていうルールになったやん。」と私は言った。
「なんかさ、朝飯を外で食べたのも初めてだったし、カップラーメンも初めてだったし、あの前に親は喧嘩してたけど、ラーメン食べ終わったころにはみんなで笑ってた。」と弟は言った。
 
確かに、そうだった。
カップヌードルが嬉しかったこともあるが、両親が仲直りしてくれて、
その後の旅が楽しくなった。
 
カップヌードルを見るたびに、
薄い霧のかかった大分駅の駐車場で、
家族4人でそれを食べた家族旅行を思い出す。
幸せの始まり…そんな食べ物。
離婚して看護師になったのも、お父さんを看取るためだったのかな、など思いが巡る。
 
弟が立ち上がりながら言った。
「でもさ、姉ちゃんが出戻ってきてから、親は喧嘩しなくなったし、孫三人も毎年旅行に連れて行ってた。姉ちゃん、夜勤とかでいなかったけどさ。俺も一回一緒に行ったよ。それで、いいやん。父ちゃん、満足だったと思うよ。姉ちゃんがいたから、家で死ねたわけだし。俺も感謝してるよ、ありがとね。」
 
娘が近づいてくる。
「お母さん、業者の人が聞きたいことがあるって」
私は涙を拭いて、立ち上がった。

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