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ネットの世界で豊かに生きた青年マッツのドキュメンタリー『Ibelin: A Gamer's Remarkable Life』

ノルウェー人青年マッツ・ステーンが筋ジストロフィーの難病で25歳で亡くなるまでに、ゲーム『World of Warcraft』のオンラインコミュニティで築いてきた豊かな世界を描いた『Ibelin: A Gamer's Remarkable Life』

ドキュメンタリータッチでというか、ドキュメンタリーなんだろうだけれども、シナリオの構成が良い。最初に、家族の私的な映像でマッツの難病でどんどん悪く自由がきかなくなっていく「何もなかった」彼の人生が描写される。家族からは、病気のせいで、友達を作ることもなく、恋をすることもなく、仲間と何かを成し遂げることもなく、、、、と、あまりに「何もない」人生で25歳であっさり死んでしまったマッツの人生を嘆くところから物語は始まる。

お葬式が終わった後、家族は、彼が作成していたブログに、自分たちの息子が死んだことをお知らせする。

きっと、誰もみていないだろうけれども・・・・。

その直後から、驚くべき量のメールが、父親のアドレスに届きはじめる。彼が、デジタルの世界で、築いていた深く広く豊かな関係が、そこで浮かび上がってくるのだ。

もうこの時点で、物語としては完成だ。

まぁ、ここで泣かないってないよな(苦笑)。

今となっては、下手したら「よくある話」なのかもしれない。つい最近アニメーションで、過去に好きだった黒曜燐の『ネト充のススメ』(2017)を思い出してみていたんだけど、これも今では当たり前のように物語の類型になったMMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG)で、バーチャルのネット世界の人格と現実世界の人格と、その交錯や違いを浮かび上がらせていく物語ですよね。

金田一蓮十郎の『ゆうべはお楽しみでしたね』(2014)はドラクエの話でしたね。もうこうした、別のアバダーや存在を、ネットのデジタル空間に持っているのは、今では本当に一般化しています。

どれも物語ですが、『イベリン あるゲーマーの驚くべき人生』(2024)のような現実でもこういう話は、よく聞くようになりました。現実の世界では自由が制限されるので、デジタルの世界で生きるモチーフは、僕は川原礫『ソードアート・オンライン』(2009)のマザーズ・ロザリオ編を思い出します。キリトとアスナが出会ったユウキという女の子は、ゲームで圧倒的な強さを誇るのですが、それは彼女が、人生のほぼ全てをゲームの世界で生きているからだったんですよね。

いやーこの系統の話は、多いのですが、現実にしかも、過去に起きたことを再現できるほどゲームのログやデータが残っているというのは、凄いことですよね。

そして、ちょっと驚きを持ってみていたのは、イベリンくんが、喋ることもなく、実際に会うこともなく(ほとんど行動の自由はないから・・・)現実に生きている人に与えている影響力。鬱になった女の子を救うのに、相手の両親に直接手紙を書くとか、、、、それほどの影響力がある解決方法を考え出すクリエイティブさには、かなり感心しました。

これもっとデジタル空間が整備されていけば、医療的に自由が制限されている人の拡張身体として、さまざまなことができる日も遠くないのでしょうね。いやはや、良いドキュメンタリーでした。

たしかに、25歳で、若くして難病で死んでしまったマッツ君は、とても悲しい。でも、「何もなかった」人生では全くなく、これほど濃密に豊かに生きていたんだとしたら、それは、十分に価値ある豊かな人生であったと思う。これは、家族は救われるよなぁ。。。

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