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時間も空間もない物語 ─『ウィトゲンシュタインの愛人』を読む─
文責:大島昴
ご挨拶
春寒の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。私としてはここ数日異様に冷えて困ります。正月に実家の北海道に帰省したときは地元ではもはや雪が解けていくような状況でありまして、東京もまたそこまで冷えていないように思えました。今年は暖冬か、と思った矢先にこれです。京都では雪が降り、東京も実際には降らずとも降雪の予報が出ました。そしてまたこれから氷点下になりそうな日がしばらく続きます。皆様におかれましてもどうか暖かい格好で過ごしていただきたく思います。斯くいう私も毛布にくるまりながらこの記事を書いていたりするのですが。
さて、今回はデイヴィッド・マークソンの『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会)という小説について少し読み解いていきたいなと思うのですが......おや? 私は前回の記事で「次は文脈について解説することになる」と申したはずです。はい、これに関しては今回は見送らせていただくことに致しました。というのも事前に自分なりに文脈についてまとめていたものはあるのですが、改めて色々と考え直してみると、これまた色々と新しく考えが出てきてしまったのです。このこと自体は全く喜ばしいことではありますが、今からこれらを整理して記事にまとめるのかと思うとどうにも時間が足りないのです。ゆえにまだ吟味も不足しているような取り留めもないことをテキトウに書いても仕方がないなと思い、文脈についての記事はまた別の機会に持ち越すことに致しました。ご了承ください。
読解の方法について
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『ウィトゲンシュタインの愛人』を読解するにあたって使用する手法について簡単に説明しようと思います。まず、今回小説の要素として注目するのは「描写」になります。この描写というものについては今までの記事の中で既に何度も言及し、詳細な解説を残しています。なので本当に軽く触れるだけにしておきましょう。描写は基本的に「情景描写」、「行動描写」、「心理描写」の三つに分けられ、それぞれは人物を取り巻く周囲の状況についての描写、人物の外面についての描写、人物の内面についての描写として説明されます。そして、それぞれの描写には特有の時間の流れ方があります。情景描写では滑らかに、行動描写では大胆に、心理描写では時間は拡大され進行しません。この描写特有の時間の流れが今回特に重要になるポイントでもあります。
もう一つ、例外的な描写についても触れる必要があります。基本的に描写は上記の三つで分けられますが例外となる描写も存在します。それは場面の外についての描写です。描写というものは通常場面の中についての描写です。場面とは人物が今現在いる、物語が進行し展開されている空間のことを指します。しかし場面の外について描写されることがあります。例えばモノの説明などがそうです。「彼は学生だ」と描写したとき、学生という言葉が示すのは彼についての外面でも内面でもなく、属性になります。また彼が学生であるというのは特定の場面を超えた一般的なものでもあります。このような描写はもっと広く言うのであれば形而上的なものについての描写ということもできるでしょう。そしてこういった例外的な描写を「概念描写」と呼んでいます。この概念描写についても今回は活用する予定になっております。
『ウィトゲンシュタインの愛人』を描写から読み解く
まず、この小説がどのような作品であるかというと、地上から人が消え最後の一人として生き残った主人公のケイトが終末世界の日常生活や生存者を探して世界を旅した様子をひたすらタイプライターで綴っているというものです。また、タイトルにあるように、ウィトゲンシュタインの思想で物語を作るとこうなる、という実験的な意図を持つようです。ようです、というのは、私自身はウィトゲンシュタインの思想に関してはからっきしであり、この作品のどこが一体ウィトゲンシュタイン的であるのかと言われましても全く説明できないからです。これに関しましては、ウィトゲンシュタインに関心があり尚且つこの作品にも興味を持ったという方に是非お読みになっていただき、できればさらにそれをまた私に共有いただければ幸いです。
ウィトゲンシュタインの思想に基づいて書いてあるのに、肝心の読む側がウィトゲンシュタインについてろくに理解をしていないというのは作品のテーマを理解できないではないかと思われるかもしれません。それは全くごもっともなのですが、私としてはそれ以上に描写の使い方に非常に興味深いものがあると感じ、その視点から読み解こうと思った所存でございます。
何はともあれ、ひとまず実際の小説の中身を引っ張り出してみましょう。
最初の頃、私は時々、道に伝言を残した。
ルーブルに誰かが住んでいる、と伝言は告げていた。あるいはナショナルギャラリーに。
もちろんそんなことを書いたのは、パリかロンドンにいたときだ。まだニューヨークにいたときなら、メトロポリタン美術館に誰かが住んでいると書いただろうから。
もちろん誰も来なかった。結局、伝言を残すのはやめにした。
本当のことを言うと、伝言を残したのは全部で三回か四回だったかもしれない。
これは冒頭の数行を引用したものです。この時点ではまだこの作品がどのようなものであるかはわからないかもしれません。......ところで今、20面のダイスを二つ振りました。出目は11と8です。掛けたら88になりますね。では88項からもう一度引用してみましょう。
レオナルドは自分のノートに逆向きに文字を書いた。右から左に。だからそれを読み取るには鏡をかざさなければならなかった。
考えようによってはレオナルドのノートの鏡像はノート自体よりも現実味がある。
レオナルドは左利きでもあった。そしてベジタリアン。そして非嫡出子。
私が撮影した母と父のスライドは今でも存在している。たぶん。
たぶん、サイモンの古いスライドもまだ存在している。
(中略)…サイモンのスナップ写真なら、もちろん持っている。ベッド脇のテーブルの上に、しばらくは枠に入れて飾っていた。
でも突然だが、この件に関しては今これ以上、タイプを打ちたくなかった。
レオナルドとは、彼の著名な画家であるレオナルド・ダヴィンチのことです。この場面ではレオナルドのうんちくのようなものから突然ケイトの母と父、そして息子であるサイモンの話に移っています。さてもう一度ダイスを振ったところ8と19が出ました。掛けて152です。では最後に152項から引用してみます。
いずれにせよ、あの午後にその本をしっかりと読んだ記憶はほとんどない。
少し前にカモメのシミュレーションをしようとしてブラームスの伝記のページを燃やしてしまったので、その代わりにテープデッキに全神経を集中しようとしたはずだ。
この家にはまだどこかに、ブラームスの伝記がもう一冊あるのだとしても。
正確に場所を知っているのに、どうして今“どこか”という言い方をしたのか、私には分からない。
ブラームスの伝記は、私がこの家の絵を置いたのと同じ部屋にある。絵は二、三日前まで、このタイプライターの横の壁、すぐ上のところにあった。
その部屋への扉は閉じられている。
劣化には潮風も手を貸している。
ふむ。つい先ほど、何かを言い忘れた気がする。
以上で引用は一度終わりたいのですがどうでしょうか。ちなみにこの作品は300項ほどあるのですが、特に章立てがあるわけではありません。どういうことかというと、最初から最後までずっとこの調子で話が続いているということです。
三つの引用に共通している部分としては、主人公があれこれと取り留めもないことを語っている中で突然自己言及をはじめ、話を戻していることが分かります。「~だったかもしれない」、「実は~だったと思う」というような急に前のトピックに立ち返ったり言い直したりすることは作品の中で何度も繰り返されています。これが最後まで続くのですから言うなれば主人公は何も確定的なことは語らないのです。ある意味「信頼できない語り」ということもできるでしょう。
またこの作品において最も興味深いと思われる点は、使用される描写がほぼ心理描写と概念描写の二つのみであるということです。この作品は主人公がタイプライターを打っており、我々が読んでいるのはそのタイプライターに打たれた文字ということになっています。そして先ほど述べた通りこの物語に章立てはなく、つまり場面という区切りが存在しません。タイプライターで書かれる情景というのは全て主人公が過去に見聞きしたものであり、それはつまり主人公の如何なる語りも場面の外についてのものでしかありません。それ以外は主人公の主観的な想い──つまり内面のことですが──が添えられている程度です。この上でさらに自己言及を繰り返すことで、物語全体を通して心理描写的なニュアンスを帯びているようにも思えます。
心理描写と概念描写の二つでのみ構成された物語というものには一体どのような意味があるのでしょうか。まず時間を進行させることができる描写は情景描写と行動描写の二つです。しかしこの二つの描写が排除されているということはつまりこの物語では実は一切の時間の進行がないということです。もっと別の言い方をするなら、物語世界の時間的な進行が一切描かれていないとも言えます。さらに言ってしまうなら、時間どころかもはや空間すら存在しないと言えるでしょう。物語世界において空間的な要素は場面を通してその内側で描写されることで現れます。しかしこの作品に対しては上記の通り我々はあくまでもタイプライターによって打たれた文字を眺めているに過ぎないのです。文字を読めば主人公がそれを打っている様子が想像はできるでしょうが、しかし主人公が特定の場面で動いている様子は実は一切描写されていないのです。この作品は物語でありながら時間も空間も取り去ってしまったのです。
時間も空間もない物語
心理描写は時間の進行を直接描くことはできませんが、それは厳密には時間が進んでいないというよりかは刹那の時間を拡大していると言った方が正確です。思考は一瞬でもその中身を取り出してみると存外複雑な感情を張り巡らせていることは良くあります。心理描写はこの内面の一瞬の複雑な動きを詳細に描写するため結果として時間が拡大されるわけです。
私が心理描写について以上のように考察したとき、ならばひたすらに心理描写を敷き詰めることで読者として感じる物語の長さと、実際に物語の中で経過する時間との間で極端に大きな差を作ることができるだろうと考え、そのような物語を構想しました。そして当時の私にとっては野心的に思えたこの挑戦に息巻いていたりもしたのですが、そんな時期に読んでいたのがこの『ウィトゲンシュタインの愛人』でした。
描写についてはもちろんですが、ウィトゲンシュタインについて詳しくなくともこの小説にはどこか不思議な魅力があり、何も確定的なことを語らない主人公の様子と結局最後まで変わることのなかった物語の調子とにやきもきしながらも、なぜだか読み進めてしまうものがあるのでした。実際のところ私がこの本を読んでいる時にはこの記事で述べたようなことには全く気付いておらず、何なら読み終えてしばらくしてからある日遅効性の衝撃を突如として受けたのでした。それも私はあくまでも時間に注目していたのに対して、この作品はさらに空間すらあるとは言えないものとして出来上がっています。自分が目指そうとしたもののさらにその先の究極系が既に目の前にあったというオチです。ある意味私にとっての青い鳥でもあったわけですね。
そんなところで今回はここまでにしようかなと思います。前述した通りこの小説は特に前提知識がなくとも楽しめるものになっておりますので、時間も空間もないどこか不思議な読書体験を味わっていただけるであろうことでしょう。心地よい浮遊感に浸りながら独特な物語世界に入り込んでみるのもまた一興ではないでしょうか。それではまた、次回にでも。