龍渓硯
この記事は、2018年にブログに掲載したものを加筆修正したものです。
長野県辰野町。「ゲンジボタル」で有名な「松尾峡のほたる」は辰野町の名物で長野県の天然記念物です。私の生まれ故郷、岡谷市に隣接し、諏訪湖から流れだす天竜川沿いの町です。岡谷市と同様、うなぎの美味しいお店もあります。
その辰野町で「龍渓硯」は産出されています。
1.龍渓硯の歴史
龍渓硯の「龍渓」は天竜川の「龍(竜=龍)」の字と、産地の横川渓谷の「渓」の字です。また、おそらくは中国の超有名硯「端渓」の「渓」ともかけているのでしょう。命名されたのは昭和10年(昭和8年との記載のある資料もあります)。当時の長野県知事大村清一氏によって名付けられました。
歴史はそれほど長くはなく、江戸時代末期ごろが発祥です。当時の上島村(現在の辰野町渡戸上島地区)で土地のお百姓が砥石になる石を採掘していたところ、黒い粘版石ばかりが採れたので、その石を近所に住む医者で寺子屋を営む渕井椿斎氏が硯にしてみたところ、とても良い硯でができたそうです。渕井椿斎氏は村人たちに硯づくりを勧め、そこから硯作りが始まりということです。
やがて高遠藩がこれに目を付けて公営事業とし、甲州から雨畑硯の職人を呼び寄せて生産を行ったそうことです。当時は高遠藩が硯を独占し、大名への贈り物などにしていたため、民間への流出することなく秘硯と呼ばれたそうです。その後、江戸や大阪に売られるようになり「高遠硯」「伊那硯」「鍋倉硯」などと呼ばれました。
明治から大正にかけ鉛筆・万年筆などが普及し、次第に毛筆による筆記がが少なくなると作硯も衰退し、龍渓硯の生産も少なくなってゆきました。その後、昭和に入り硯が見直されるようになると、山梨県から硯石を求めて、川口丁郷、翠川希石、深沢秀石らがこの地に移住して硯作りを始め、龍渓硯は復興しました。
こうしてみると、山梨県雨畑硯と龍渓硯ははじめから縁が深かったように思えます。
2.龍渓硯の硯材
龍渓硯の硯材は「黒雲母粘土板」と言われる石で、緻密な石質で鋒鋩がきめ細かく粒子の細かな墨を下ろすことができるということです。赤褐色の錆色がでる部分も美しいです。基本的には蒼黒の色合いですが、紫色の石も稀に見られます。
雨畑硯の硯材も同様の粘板岩で、色合いもとても似ています。蒼黒や紫色の石があるところ、赤褐色の錆色が出るところもとても似ています。硯を触った時の石の感触も非常に似ていると思います。硯石の硬さや粘り具合を触った感触で感じることができますが、唐硯の鋭い硬さに比べると温かみのある柔らかさを持っています。
私は、地質や原石についての知識は全くないので素人考えではありますが、同じ糸魚川静岡構造線のつながり上に産地があることもあり、龍渓と雨畑に共通点があるような気がします。
ただし、当然ですが違いもあり、雨畑硯に見られる硯面のうっすらとした紋は龍渓硯には見られません。
長野県岡谷市出身の身としては、龍渓も雨畑もとても親しみを感じていて、その柔らかなすり心地を和墨用として愛用しています。
3.硯材枯渇問題
龍渓硯を東京の書道用品店で見かけたことがありません。流通量はさほど多くないようです。雨畑の方が知名度も高く、東京の書道用品店でも多く見かけます。龍渓にしても雨畑にしても原石の枯渇と職人の減少が深刻な問題です。
この問題は和硯全般に言えることで、日本の硯山地として最大の雄勝硯(宮城県)は東日本大震災の後、生産を中止していましたし、同じく著名な赤間硯(山口県)も硯材が枯渇したと聞いています。
日本の硯作りの伝統が、今後も引き継がれていくことを願ってやみません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?