「正字」としての楷書字形の確立と活字体の成立について
この記事は、2017年にブログに掲載したものを加筆・修正したものです。
小学生用のお手本を書くときには、いろいろなことに注意を払わないといけません。何年生で習う時なのか、それも1学年の中でいつ習うのか学校によってまちまちなので、その学年で初めて払う字を4月にいきなり使うのも控えた方が良いことがあります。
「学童手本」の模範字形を考える際、学校教育で用いられる手本の規範となっている当用漢字成立の歴史的背景を知ることも重要かと思います。
同様に、書作品としての楷書体を考える時、万人が読めるために定められてきた「正字」の統一事業の歴史を知ることが大切ではないかと思います。
1.楷書の正字化
中国は、広大な土地に様々な地域があって、多民族がそれぞれの文化とことばを持っています。その中国で、強大な統一国家を保つために文字の統一は重要な課題でした。逆に言えば、強大な力を持つ国家でなければ文字の統一、「正字化」事業はなしえなかったと言えるでしょう。
中国の歴史の中で文字の統一ができたのは秦、漢、唐だけでした。秦は篆書を、漢は隷書を、そして唐は楷書を正字としたのです。正字はそれぞれの時代の権力者によって石碑に刻され、後世まで保存しようとされました。なので、普段書きの通行体である行書・草書などは唐代までは碑に刻されることはなかったのです。
唐は秘書省という役所で「大史」「著作」を管轄させ、経籍などの管理とそれを著す書体の統一事業を進めました。その初代長官である秘書監に古典学の知識が広い顔師古(がん しこ)が任命されました。顔家は代々、経典、古典に詳しい学者の家系でした。顔師古は古本を精査し、五経の経文の字体を調べ「顔氏字様」をまとめたといわれますが、現在は失われています。
顔家は一門を挙げてこの事業を推し進め、師古四世の孫、顔元孫(がん げんそん)が「干禄字書(774年)」を著します。「干禄字書」では、楷書が成立した3世紀から500年もの時を経て、さまざまな異体字が発生したものを正すため、「説文解字」や当時流布していた経書などを元に、小篆の字体から類推される楷書字形を正字としました。
ちなみに顔元孫の甥である顔真卿(がん しんけい)は干禄書体を好んで用いたそうです。そこから、彼独自の楷書体「顔法」と呼ばれる書法が生まれました。
その後も顔家は正字確定事業に力を注ぎ、「五経文字(776年)」「九経字様(833年)」をまとめ、ついに「九経字様」の正字を定体とするという勅旨をとりつけます。唐による楷書の正字化事業は顔家によって完成され、九経は石碑に刻されました。その石碑を開成石経(かいせいせっけい)と言います。
2.木版印刷と宋朝体
唐が滅んだ後、五代十国時代の後唐の宰相・馮道(ひょう どう 882~954年)のもと、木版印刷が行われるようになりました。
馮道は九経などの古典は国家が正しく刊行すべきだと考え、本文を校訂、注釈し、手書きの誤植を正しました。このとき底本とされたのが「開成石経」です。
やがて宋代となっても馮道の事業は受け継がれ、木版印刷は国家事業として行われることになりました。「開成石経」を通して顔家の完成した正字楷書が木版印刷によって普及してゆくことになります。これが宋朝体です。この頃の木版には筆者名と彫り師の名前が記されていたそうです。書写が顔家の正字楷書をきれいに手書きした字が木版の元となっています。
3.活字の登場と明朝体
元代になると、木版画ではなく活字が登場します。陶、錫などの活字も登場しますが、一般的にはまだ木活字が用いられたようです。
活字にする版下は版木に貼り付ける原稿で、一度彫られるとなくなってしまう消耗品です。同じ字の活字を作るためにはまったく同じ形で版下を書く必要があるので、文字に変化をつけず、まったく同じ字を量産できる職人が求められました。したがって、版下職人は芸術的な作品の書家ではなく、画一的な版面に読みやすい字粒のそろった字を大量生産する存在です。
このころの印刷物からは筆者名が記されなくなっています。そしてその画一的な活字の元となったのが宋朝体です。
明代になると活字はデザインとして完成し、明朝体が登場します。活字が写植になり、パソコンのフォントとなった現代まで、明朝体で完成したデザインは主流として残っています。
4.「康熙字典」の現行活字への影響
清の康熙帝(こうきてい)により「説文解字」以降の歴代の字書の集大成として、「康熙字典」が編纂されました。
この字典では篆書字形の活字化が徹底され、「説文篆文(せつもんてんぶん)」をできる限り楷書化することが正しい字形のあるべき姿だとしているようです。清朝の「説文解字」研究による復古主義的な傾向が強いといわれ、小篆の字形を楷書にあらためて新しく造字されたものも含まれています。
この復古主義は「干禄字書」よりもさらに徹底され、「干禄字書」では許容範囲とされていたものも篆書字形が正しいとされました。例えば、「婁」「眞」「來」「麥」「靑」「壞」「顏」「增」「舍」「處」などは伝統的に用いられてきた楷書体を基にした明朝体の字形と異なっています。
「康熙字典」の書体は「康熙字典体」と呼ばれ、活字体の正字とされたため、現行活字の旧字体はほぼ「康熙字典体」といえます。また、「定」「崎」などは常用漢字にもそのまま採用されています。また、現在の漢和辞典の典拠となり、コンピュータで用いられるUnicodeの漢字の配列順にもなっているなど、現代にも影響を及ぼしています。