インドの神が舞い降りる~秋篠寺幻想
東洋のミューズといわれた秋篠寺の伎芸天は大好きな仏像の一つだが、この方は私には男性に見える。なので伎芸天という名も腑に落ちず、謎を感じる仏像の一つである。
インドのアジャンター石窟第1窟のヤクシャ像「蓮華手菩薩」「金剛手菩薩」と法隆寺金堂壁画6号壁「観音菩薩」「勢至菩薩」が似ているという話は有名だが、伎芸天だってすごく似ていると思う。
お盆休みを利用して、この三屈法という優雅な姿態を持つ像の探索の旅をしてみた(図書館とネットで笑)
インドのグプタ朝時代はインド古典文化の黄金時代で、アジャンター壁画はこの時代を代表する6世紀ごろの傑作。法隆寺壁画は7世紀最末期から8世紀初期頃。伎芸天は8世紀末。この間の三屈法で表現された仏像を調べていく。
日本で三屈法表現として有名な薬師寺日光月光菩薩、697年ごろ。玄奘三蔵(645年唐に帰国)によってその造形がインドから中国に伝えられ、それが日本にもたらされたとされる。しかし玄奘はナーランダーで大乗仏教を学び、その関連の書物仏像を持ち帰ったはずであり、三屈法は主にヒンズー教の神像に見られる特徴。おかしい!たとえその中に三屈法仏像があったとして、それが遣唐使によって日本まで伝わるのは年表を見る限りとても難しい。もしその少ない可能性で伝わったとすると、その伝播力はデルタ株以上だ。
鶴林寺の観音菩薩立像は微かな三屈法で表現されていて、白鳳期の仏像の代表作といわれている。個人的には朝鮮半島の仏像を連想する。そして朝鮮半島の仏像は6世紀ごろにインドから従来の通説の南部中国ではなく、北部シルクロードを経由して伝わったのではないかと思っている。
東博東洋館には宝慶寺仏龕(盛唐時代)の石仏群が展示されていて、その中に三屈法の菩薩が見られるらしい。コロナ禍が終わったら行きたいと思っている。一番お顔がインド風だと思った一枚。
そして調べた中で一番伎芸天と似ていると思ったのは、敦煌莫高窟47窟の菩薩、盛唐8世紀作。これは他の人々も伎芸天との類似性を指摘している。
僅かな時間にふんわりと三屈法像を探しただけなのだが、感じたのは伝播の早さというか同時性だ。仏教の歴史としては、インドから遥々中央アジアを通り中国に至り、朝鮮半島を経由して日本にもたらされたと習った。三屈法様式はそれとは違う、つまり宗教とは関係なくその美しさに因って周辺に伝播していったのではないかと思う。インドから東南アジアへは海路によってジャワ島やクメール美術に引き継がれた。長安の都にはたぶん南インドから海路を辿って伝わり、険しい山や砂漠を超えて敦煌にも辿り着いた。では日本や朝鮮半島にはどうやってやってきたのか?たぶん中国南方の寧波あたりを経由して、海からインドや東南アジアの美術品が直接運ばれてきたのではないだろうか。
そう思う根拠は例えば法隆寺金堂壁画のこの飛天が、どう見てもインド系の女性だから。大陸の天女はみなその地域の顔をしている。唐経由で来たのならお顔が漢族か遊牧民族風だと思うのだ。この頃の奈良はシルクロードの終着点として、懐の広い国際的な感性を持っていた国だと思う。だから美しいものはそのまま真似したのではないかと思う。それは正倉院の宝物にも見られる特徴だ。そして話は秋篠寺に続く。
実は秋篠寺には同形式の仏像が他に3点ある。上から救脱菩薩、帝釈天、梵天。伎芸天を含めて胴体は鎌倉時代の補作で、謎をたっぷり含んでいる。例えばなぜ梵天が鎧を着ている、それは帝釈天の役目だろ!とか。なぜ謎だらけになったかというと、奈良時代以降日本の国際性は失われていって、インドの神々のことを誰も知らなくなったからだと思っている。
この4体の仏像の顔立ちは北方系から南方系まで様々な民族の顔を持つ。奈良の都にこのような顔立ちの人々が住んでたか、そのような異国の美術品があったのだろう。とりあえず伎芸天に限って見れば、髪型はインド風だし華やかな冠もつけていたはずだし、おおらかな表情やのびやかで丸みのある姿態はインドグプタ時代の特徴が色濃い。また後世の補作でもわずかながら三屈法が見られるので、インドの神であることは間違いないだろうと思った。そして伎芸天ではない。なぜならインドの女性神は豊満な乳房を持っていて、この体形はあきらかに男性のものだ。だとしても美しさに変わりはなく、東洋のミューズと呼ぶことには異議はない。
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