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「感謝されない医師」とはなにか

はじめに

産業保健活動と感謝については、何度かTwitterでも話題としてあがっていて、産業保健職のやりがいや、活動の方向性などにも関連してくるため、「感謝」というのは非常に重要なワードだと思っています。特に、産業医科大学卒業生としては、フィロソフィーとしての「感謝されない医師」というものがありますので、普段から「感謝されない医師」という概念を意識している方が多いのではないかと思います。そこで、「産業保健活動✖️感謝」ということで考察を深めていきたいと思います。

産業医科大学のフィロソフィーとしての「感謝されない医師」

産業医科大学において、3本柱というべき「フィロソフィー」があります。これは、初代学長の土屋健三郎先生が示された目指すべき医師像として伝わっているものであり、以下の3つです。

人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師
上医を目指す医師
感謝されない医師

初代学長の土屋健三郎先生が示した産業医科大学が目指す医師像

この記事では、特に「感謝されない医師」ということについて考えていきたいと思います。

産業医科大学医学概論教室のホームページには、その解説がありますので、まずはそちらを引用します。

3) 感謝されない医師
通常、患者やその家族から感謝されることは、医師としての喜びであり、生き甲斐の原点となる重要な出来事です。感謝されることを心の支えとして一所懸命に医学の実践や研究に励んでいる医師も少なくありません。しかし、土屋によれば、逆に「感謝されない医師」を目標とすべきであるとしています。これは一体どういうことなのでしょうか。
「感謝されない医師」とは、病気を未然に防ぐことを実践する「産業医」を前提にした究極の予防医学を実践する医師の姿ではないかと思われます。職場環境や作業の改善によって労働者の病的症状が劇的に改善する場合もありますが、自覚症状のない慢性疾患や軽症のメンタル疾患を有する労働者に対して面接や就業制限などを実施したときは、感謝されるよりも、むしろ嫌な顔をされることが少なくありません。しかし、直接的に感謝されることが少ないことにこそ、医師として真の喜びを覚えるのが本当の医師の姿であり、利他の精神と無功徳の心を貫くプロフェッションの真髄がある、ということが土屋の伝えたかったことではないでしょうか。
しかしながら、感謝されないことに喜びを感じるというのは至難の業であり、あまりにも感謝されない日々が続くと、自分は必要とされていないのではないかと虚無感に襲われてしまうのが普通の感性をもった人間です。医師としてのアイデンティティ・クライシスに陥らないためにも、「感謝されない医師」というのは、感謝されることをあたり前と思ってしまう傲慢な医師にならないよう、逆に患者に「感謝する医師」であれ、と積極的な意味で解釈した方が土屋の真意に近いものと考えられます。

産業医科大学 医学概論教室ホームページより

この文章を少し要約すると

「感謝されない医師」とは、患者や家族から感謝されないことを目指す医師の姿を指す。

  • この考え方は、予防医学に重点を置き、病気を未然に防ぐことを重視する医師を指向する。

  • 感謝されない医師は、労働者の健康を改善するために職場環境や作業を改善する一方、自覚症状のない慢性疾患や軽症のメンタル疾患を持つ労働者に制限を設けることもある。

  • 彼らは感謝されるよりもむしろ批判を受けることが多いが、その中に医師としての真の喜びや利他の精神が存在するとされる。

  • 感謝されないことに喜びを感じるのは困難であり、医師のアイデンティティの危機を回避するためには、むしろ患者に感謝する医師であることを意味するとも解釈される。

この話を起点として、ガチ産業医として、「産業保健×感謝」について考察をしていきたいと思います。「感謝」について批判的に、内省を促す意図で作成していますが、産業医科大学のフィロソフィーの一つである「感謝されない医師」という考えをリスペクトした上で、自分なりの解釈という意味になります。

「産業保健活動×感謝」について考察

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