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メリークリスマス、ベン

8年生(日本の中学1-2年生)の日本語クラスでは、ほとんどの生徒が練習問題を済ませてしまったというのに、ベンだけがまだ鉛筆を握ったまま一生懸命ひらがなを書いている。ほんのちょっと複雑な「ほ」というひらがなを書くだけでも、彼は三度ほどお手本を参照しなくては書き終わることができない。その字も悲しいくらいヘタクソだ。

ベンは、おとなしくてあまり笑わない子だ。そして、軽度の知的障害がある。日常生活に差し障りがないので教室内で専門アシスタントはつかないが、日本語学習能力はきわめて低い。宿題や教科書をよく忘れるし、授業態度こそ悪くないが何をするのもとても遅い。集中力も五分ともたない。しかし、隣の子とおしゃべりするわけではなく、ただひとりでぼうっとしているだけだ。

ベンだけ特別扱いをするわけにいかないので、他の子と一緒に授業の後休み時間のときに残すこともある。そのときにどうしてもベンが覚えられなかった「曜日」を教えてみた。
「ヨウビって言葉はどの日にもつくのよ。だから、ニチ、ゲツ、カー、スイ、モク、キン、ドーって覚えてヨウビをあとにつけるだけ。だからこれだけ暗記しちゃえば、あとは簡単」
 そして、一緒に何度も何度も呪文のように練習した。そのあと何回か授業の終わったときにも「ベン、もうひとりで言える?」と確認した。できないときは、また一緒に暗唱した。
 
授業の始まる前に、わたしは毎回「きょうは、なんようびですか」と聞く。何人かの生徒が手をあげる。ひとりに当ててその子が答えると、今度は「じゃ、あしたはなんようびですか」だ。この質問は「きのうはなんようびでしたか」で終わる。毎回三人の生徒が正しく答えるわけだ。中学最初の一年間これを繰り返すことによって、ほとんどの子が次の年もすんなりと覚えている。
このセッションに、ベンが手を挙げ始めた。当てれば、正しい答えが返ってくる。「よくできましたね、ベン。本当によくがんばったね」と褒めると、ベンは目を伏せながらも嬉しそうだ。その次も、その次も、ベンは当ててもらおうと一生懸命に手を一番高く挙げる。授業が始まればベンはまだ何一つできないが、ヨウビだけははっきりと誇らしげに言えるようになった。

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西オーストラリアのクリスマス休暇は、6週間の夏休みだ。だから、12月に入ると生徒たちはウキウキとして勉強どころではない。低学年のクラスで、折り紙やクリスマスカード作りなどを盛り込むのもこの時期だ。折り紙の風船はクリスマスツリーの飾りつけにもなるので、きれいな包装紙を様々なサイズで用意した。一番小さい紙は5センチ四方もない。

「えー、センセイ、こんな小さいの無理だよー」と頭を抱える少年に皆が笑いころげる。紙を配って歩くわたしの手から、大きいサイズが次々と消えていった。後ろのほうの席にいたベンは一番小さい紙を何枚かそっと折らないようにわたしから取る。「ベン、だいじょうぶ?」と聞いたら、「うん、試してみる」とはっきり言った。
30人もいる教室でその後15分間、あちらで教え、こちらで修正し、席を立って遊びだした少年たちを叱り飛ばし、きちんとできた子には褒めてあげる。ベンはその間中、ひっそりとひとりで小さな小さな風船を折っていた。授業が終わると、「できた」とだけ言って、自分の手の上に乗った豆粒ほどの風船を見せた。「よくできましたねえ、きれいよ」と褒めたら、「うん」とだけ答えて教室から出て行った。

放課後まだ教室に残って窓際の整理をしていたら、またベンが来た。
「センセイ、来年もうここで教えないって本当?」
「そうよ。来年は新しい先生が来るから、また一生懸命勉強してね」
「僕は、センセイがいいな。センセイがまた来年教えてくれたらいいな」
「でも、駄目なのよ。わたしは非常勤だから。今度のセンセイはずっといるからね」
ベンはいつものように無表情で黙って立っていたが、右手に握っていたものをいきなり差し出して、わたしの手に押しつけた。
「これ、センセイにあげる」
見ると、前回教えた手のひらにはいるくらいの折り紙の箱に、豆粒風船がいくつもいくつも入っていた。
「センセイにあげる」
ベンのいる日本語クラスは2時間目だった。それから、授業中に折ったり昼休みに折ったりしていたのだろうか。あまりにも小さいその風船たちは、もちろん不恰好で形も揃っていない。
「どうもありがとう、ベン。こんなにたくさん、嬉しい」
ベンは口の中でモゴモゴと「メリークリスマス」と呟き、わたしの顔も見ずにさっさと帰ってしまった。

わたしはそのまま窓に寄りかかり、長いこと手のひらの豆粒風船を見つめていた。西日が差込み、つよいオレンジの光がわたしの頬を温める。
「メリークリスマス、ベン」
彼のようにもう一度そっと呟いて、わたしは窓を閉めた。


*この話はもう随分前、わたしが公立校を去る年の12月に書いたものです。その後失業していたわたしは、ある事情で半年だけまたその学校に戻ることになります。自分の失業を作ったフルタイム教師とともに働かなければならないのは、彼女の仕事ぶりを見るにつけ、さらに辛いものでした。そして、そのときに私立女子校からようやく日本語教師の口がかかったのです。それから15年もそこで教えることになろうとは、そのときはまだ知りませんでしたが。
私的ブログ「がびのテラス」から転載しました。

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