がび

オーストラリア在住。ビジネスコンサルタントから方向転換、豪州中高校日本語教師に。英仏独…

がび

オーストラリア在住。ビジネスコンサルタントから方向転換、豪州中高校日本語教師に。英仏独語遣いですが一番得意なのは日本語。日々のこと、ちょっと考えたこと、記憶の片隅にあることなどを気ままに綴っていきたいと思います。料理レシピはhttps://gabyskitchen.netで。

最近の記事

妹の心臓カテーテルアブレーション治療

ここ最近ずっと「なんだかドキドキする」「息切れがする」と言っていた妹。 結局細密検査の結果不整脈と心房細動と診断され、カテーテルアブレーション治療(経皮的心筋焼灼術)をすることになった。 下のリンクに詳しい説明がある。参考 心臓カテーテルアブレーション治療(経皮的心筋焼灼術)|名古屋セントラル病院 しかしながら、わたしの妹は痛いのがダイキライな超怖がりなのだ。伝説となっているのは、盲腸の手術時に局部麻酔をされて、「絶対効いていないから!まだ痛い!」と主張し、様々な管をつ

    • 「右」と「左」のカナシイ混乱

      マッコウからこんなことを言うと、「それはあなたの運動神経が鈍いからでしょう」と言われそうだが、わたしは自転車に乗れない。 子供のころに三輪車という便利なものは活用したが、その後二輪車になってから、全く乗れないというわけではなくとも、かなりヘタクソで危なっかしい運転だ。 それと言うのも、あのクソいまいましい「自転車の乗り方」というものが、どうしても右利き用だったから。 わたしたち左利きにとっては、右足が軸となるひとが多いので、右側に回って左足をペダルにかける。そして降りるとき

      • 昔気質の大工のおじさんがいた

        昔気質、という言葉がある。若いひとたちは「むかしきしつ」と読んでしまいそうだが、これは「むかしかたぎ」と読む。 昔からの伝統的なことがら、様式、仕事などを頑固に守るひとたちのことだ。独創性に欠けるという弱点も持つが、伝統的な技術を継承する職人にも多い。 そうした昔気質のKというおじさんは、わたしの実家を建てた大工さんだった。だった、というのは、脳梗塞で倒れて、そのまま寝たきりになってしまったからだ。 わたしの覚えているおじさんは、頭を手ぬぐいで包み、地下足袋で軽やかに足場を

        • 若いキモチ

          久しぶりに書類を整理していたら、16年以上前に公立校で働いていたときにもらった手紙が出てきた。 当時わたしの日本語アシスタントをしていた男性が、田舎の学校で次のアシスタント業務に旅立つ前に書いてきた手紙だ。 「まだセンセイのように天職と言えるものは見つかっていないけれど、とりあえず英語の勉強をがんばるつもり」とある。本当にやりたいことがまだわからなくって、と書く彼は二十四歳だった。 今はコロナ禍のせいで海外へ行くことがままならなくなってしまったけれど、それ以前は「行けば何

        妹の心臓カテーテルアブレーション治療

          成人式の日のあなたへ

          成人式の日付が変わってから久しいけれど、それが1月15日だろうと1月第2月曜日だろうと変わらないものがある。 20歳という、誰もが迎える成人としての出発点の記憶だ。 成人としての人生は今始まったばかりだ。足りないものは未来への確信だが、かと言ってたった今歩いている場所も、なんだか雲の中のようにたよりない。何でもできそうな気がする。そして次の瞬間には、何にもできそうもない気がする。用意周到なんて、ジジババたちの言うことだ。あなたには、彼らの使う死語のように理解しがたい言葉だ

          成人式の日のあなたへ

          メリークリスマス、ベン

          8年生(日本の中学1-2年生)の日本語クラスでは、ほとんどの生徒が練習問題を済ませてしまったというのに、ベンだけがまだ鉛筆を握ったまま一生懸命ひらがなを書いている。ほんのちょっと複雑な「ほ」というひらがなを書くだけでも、彼は三度ほどお手本を参照しなくては書き終わることができない。その字も悲しいくらいヘタクソだ。 ベンは、おとなしくてあまり笑わない子だ。そして、軽度の知的障害がある。日常生活に差し障りがないので教室内で専門アシスタントはつかないが、日本語学習能力はきわめて低い

          メリークリスマス、ベン

          再び、学校を去る日

          15年間教えた私立女子校を退職した。 正式には退職「させられた」わけだが、それは日本語コースが今年いっぱいをもって消滅したからだ。 「再び」と言うにはわけがある。 わたしは以前にも某公立校を退職しているのだ。同じように、わたしの意図とは関わりなく。 https://gabysterrace.com/?p=114 さようなら、わたしの15年間 すでに5年前の2015年末に、次の年から日本語を7年生からオファーしないことにした、との告示があった。日本の中学1年生に当たる7年

          再び、学校を去る日

          トランスジェンダーとして生きる元私立女子校生:学校におけるセクシュアリティーとジェンダーの課題

          以前学校の職員デイで「多様な現代のセクシュアリティーとジェンダー」と題してのセミナーがあった。 LGBTIの概念について、最初に基盤となるのがSex。つまり「生物学上の性別」のことだ。ここにいるのが「男」と「女」だが、まれに両方の性を持って生まれてくるひともいる。これがIntersex(性別としては中間性)だ。程度の差こそあれ、性別の判断が難しいひとのことだ。日本語では半陰陽と呼ばれることもある。人口の1.7%ほどのひとがこの性質を持つので極少数だと思われがちだが、「赤毛」

          トランスジェンダーとして生きる元私立女子校生:学校におけるセクシュアリティーとジェンダーの課題

          新しい蝋燭には、まず灯をともして幽霊を待つ

          蝋燭は好きだが、買ってからまだしばらくは灯をともさないこともある。忘れていたり、またはそんな気分にならないときなどが、そうだ。 先日友達を 何人か呼んだときに、スコットランド出身のボブが座って飲み物を手にとったとたん、いきなり「マッチかライターある?」とわたしに聞いた。 「あら、煙草吸っていたっけ?」とびっくりしたら、「いや、蝋燭に灯をともさなきゃ」と言う。珈琲テーブルの上には、まだ新しい蝋燭が二本、白い芯もそのままに置いてある。その両方にマッチで灯をつけたボブは、ふわっ

          新しい蝋燭には、まず灯をともして幽霊を待つ

          Epiphany:「光」は突然わたしのフランス語 にさしたのだった

          英語でEpiphanyという言葉がある。 Weblio辞書を引いてみたら、こうあった。 https://ejje.weblio.jp/content/Epiphany わたしが書きたいのは2番目の意味だと思う。 文学的にはよく使われている言葉だが、日本語で何と言うのか知らなかった。カタカナで「エピファニー」か。なんだか拍子抜けしてしまった。 過去に1度だけ、この2番目の意味の思いをしたことがある。 フランスに留学していたときのことだ。 それは、イラン人のハミッ

          Epiphany:「光」は突然わたしのフランス語 にさしたのだった

          「大きなお世話」と思われても、小さな親切のために手を差し伸べたい

          先日、「大きなお世話」と思われるからやめようと思っているのにオセッカイがやめられない、と書いた。 そして、「情けは人の為ならず」の誤解釈には最近の「冷たい社会」が関係しているのではないか、とも。 年取ってからは何だか人の目を気にしてもなあと思うことも多くなり、オセッカイがもっと楽になったこともあるが、何よりこれは遺伝なのでどうしようもない。 困っているひとを見て無視することの「後味の悪さ」のほうが先に立ってしまうので、さっと助けてさっと離れる。亡き母も誰かが何か落としよ

          「大きなお世話」と思われても、小さな親切のために手を差し伸べたい

          情けは人のためにならないのだろうか

          「情は人の為ならず」ということわざがある。 現代では間違って使われていることが多く、文化庁の調査では実に75%以上のひとたちが「ひとに情けをかけることは、結局そのひとのためにはならない」という意味で使っているという。実際の意味は「ひとに情けをかければ、結局は巡り巡って自分のためになる」で、全く違う場面で示さなければならないことわざだ。 元々は仏教の教えで、「善因善果・悪因悪果・自因自果」という因果の道理から来ている。結果には必ず原因があるし、原因が「善」ならば善い結果とな

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          「死がふたりを分かつまで」を拒否する墓の前でわたしが考えたこと

          わたしは、あてもなくゆっくりと散策するのが好きだ。ここパースで今の家に引っ越すまでは、なぜかあまり周辺を歩き回ることもなく過ごしてしまったけど。 いつだったか、薄曇りの天気が続いたあとの晴れ間に少々辺りを見てみようかと出かけたことがある。まだアパートに住んでいたときのことだ。 しばらく歩くと広大な墓地があり、何百もの平らな墓が果てしなく続いていた。オーストラリア自体が「新天地」なので、墓に刻まれた文字は皆比較的新しいものばかり。1900年以前のものはほとんどない。 そうし

          「死がふたりを分かつまで」を拒否する墓の前でわたしが考えたこと

          小さな親切は彼らにとって大きなお世話なのかもしれない

          時々雨交じりの風が吹いて、いや寒いのなんの。それでも気を取り直して出かけてはみたものの、普段はすいている美術館にわざわざ日曜日にはいりたくはない。 まあ、ちょっとだけ買い物をして帰るか、と駅の構内を抜けてショッピングアーケードに向かったら、3人ほどの若い日本人のグループが大きなバックパックをしょって、電車のチケット販売機の前で話し込んでいる。何やら困っているらしい。 近づいて「どうしたの?」と聞くと、やはり買い方がわからないということ。どこまで行くのか聞いてから、これこれ

          小さな親切は彼らにとって大きなお世話なのかもしれない

          上野のおじちゃんともう一度電気ブランを

          日本で以前大ヒットした「仁」第2部のDVDを貸してもらって観た。 昔懐かしい中村敦夫がイナセな鳶職の頭として出演している。わたしが昔観たのは彼の代表作「木枯らし紋次郎」だ。古いね。 彼の言葉を聞いていたら、妙に懐かしくなった。 生粋の江戸っ子弁だ。 今じゃ江戸落語でしか聞くことのできないイントネーションと間合い。そして、それがとても自然に口から出てくる。テレビの他のドラマでもよく見かけるが、若い俳優たちではどうもそのニュアンスが伝わらない。というより、全然江戸っ子弁じゃな

          上野のおじちゃんともう一度電気ブランを

          愛する者たちは「イヤイヤながら」今日も同じベッドで寝る

          「ひとといっしょに寝る」という行為は、途方もなく不自然で不便なものだ。 おお、それはもちろん「ひとといっしょに寝る」ということが愉しい場合もあるが、それは「寝る」という語彙のもうひとつの意味であって、わたしの考えている意味の場合ではない。 この「愛し合う者同士は寝室を一緒にしなければならない」というシキタリに疑問を持つひとはあまりいないが、大半の方々が何かしらの耐えがたきを耐えているのではないだろうか。 たとえば、わたしの知り合いには、ベストセラー作家ジョン・グリシャムを

          愛する者たちは「イヤイヤながら」今日も同じベッドで寝る