松岡國男の詩を評価する水野葉舟
これまで、noteには、明治大正期の書物や雑誌、絵葉書の美術的側面について考える記事を主に掲載してきた。
文学についての記事は、ブログ《表現急行》で公開することが多い。この記事も最初はブログ掲載用として書き始めたものである。
ブログは、スマホでは読みにくい。立ち上がりが遅く広告も消さなくてはならない。ブログの読者はPCからの閲覧がほとんどである。そこで、こうした文学にかかわる記事をnoteにあげると、読者が変化するのか、試してみたいと思った。
水野葉舟編『代表作新体詩集 心の響』
購入して忘れていた古書を手に取ると、たいへん興味深いことが書かれていることに気づいた。
その本は、水野葉舟編『代表作新体詩集 心の響』(1916年9月18日、耕山堂)という日本近代詩のアンソロジーである。
カバーが残っているのは古本好きとしてはうれしいことだ。表紙画は右下隅から背にかけて小さなサイン(△のなかに※か)があるが、画家は未詳である。中央に鐘が描かれ、雨のしずくが全体に降りそそいでいる。鐘は心の響きを象徴し、しずくは感情のしたたりを暗示したものであろうか。
カバーをはずすと、書名が違っていることに気がつく。表紙では「列伝体代表的新体詩集」となっている。奥付をみると「心の響」とのみある。
判型は菊半截(菊判の半分の大きさ)で、今の文庫本のサイズに近い。明治後期から大正にかけて、こうした携帯に便利な小型本が多く出版されている。
当時は「詩」といえば漢詩を指したので、和歌俳諧ではない近代の詩を「新体詩」と呼んで区別していた。新体詩から口語詩、自由詩にいたる詩が収められ、1916年という時点では、近代詩史を見渡すのに好適な一冊となっている。
巻末の広告の写真を掲げておこう。
編集には水野葉舟の価値観が反映された特質も見出される。そのことに触れる前に、水野葉舟について簡単に紹介しておこう。
編者の水野葉舟(本名、盈太郎)は、明治40年代に流行した〈小品〉という文学形式の書き手の一人であり、心霊研究にも関心を持っていた文学者である。
〈小品〉とは短い散文のことで、1910年前後にブームがあった。エッセイや叙景文、写生文、フィクションなどジャンルの垣根をこえて、短文の作品を〈小品〉という総称で呼んでいたのである。
新聞『万朝報』で始まった伊藤銀月の「百字文」、雑誌『ハガキ文学』の「ハガキ文学」欄など、読者の投稿による短文が明治30年代後半には新聞、雑誌に掲載されるようになっていた。こうした読者の投稿文芸としての短文が〈小品〉流行の底流にあった。
水野葉舟は、〈小品〉の特性を詩的な散文という点に求めた。新潮社の小品文集シリーズの一冊として刊行された第二作品集『響』(明治41年12月、新潮社)の「序」で葉舟は「閃く感情を、詩を書く様な高い調子で、文章も簡単に、出来る限りコンデンスして書いて見たらば、と思った」という小品創作の動機を記している。
松岡國男の詩が43編も
さて、そうした詩と散文の境目にある〈小品〉を書いた水野葉舟の近代詩のアンソロジー『代表作新体詩集 心の響』の編集には編者の独自の価値観を示す特徴がある。
たとえば、藤村以前の抒情詩として、三木天遊や繁野天来を取り上げている。この2詩人は、近代詩史のフィルターに引っかかることはまれである。
小説、演劇で活躍した小山内薫の詩を1編とっていたり、旧約聖書の詩篇の翻訳を収めていたりするのもおもしろい。
いちばん驚くのは、松岡國男の詩が43編も収録されていることである。取り上げられたどの詩人よりも収録された詩の数が多い。
松岡國男は、民俗学を大成した柳田國男その人である。
じつは、水野葉舟は、柳田國男の『遠野物語』(明治43年6月)の誕生に深く関わる人物であった。葉舟は『遠野物語』の材源を提供した佐々木喜善(鏡石)と下宿が同じで、佐々木の談話を怪談としておもしろく聞いていた。超自然的な伝承に関心があった柳田國男に佐々木喜善を紹介したのは水野葉舟であった。
松岡國男の項の解説の中で、水野は次のように書いている。
43編もの多くの詩を収録したのは、松岡國男が島崎藤村以前の最も重要な詩人でありながら、その詩がほとんど世間に知られていないためだということがわかる。
目次の写真を見ていただくと、アンソロジーにおいて、松岡國男の詩が占める割合の大きさを実感していただけるだろう。
『代表作新体詩集 心の響』における松岡詩の編集配列
このアンソロジーの「序」で、水野葉舟は次のように書いている。
島崎藤村と同程度の重要性を持つ詩人として松岡國男が評価されているのである。詩が単なる形式ではなく「情緒のもの」、すなわち心の表現として自立するものになったということが、評価の理由である。松岡國男がそれを示し、島崎藤村がさらにそれを深めたというのである。
松岡國男は、当時の飾磨県神東郡辻川村(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)で、父、松岡操、母、たけの六男として生まれた。
兄の松岡鼎が医師として開業した茨城県北相馬郡布川、その後転院した千葉県の布佐で、國男は青春期を過ごした。布川、布佐は利根川をはさんで向かい合っている。
一高から東京帝国大学法科大学に進んだ松岡國男は、田山花袋と交遊し、文学への関心を深めた。『文学界』や『帝国文学』に詩を寄稿し、宮崎湖処子編『抒情詩』(明治30年4月、民友社)の寄稿者の一人となったが、明治32年には、友人花袋に詩との訣別について手紙を書き送った。
大学卒業後、高等文官試験に合格した松岡國男は、農商務省に入省し官吏となる。明治34年には、東京牛込区市谷加賀町の大審院判事柳田直平の養子となって改姓した。
単著の詩集もなく、わずかな時期に活動しただけで、詩と別れて、官吏として生きる道を選んだ素人詩人といってもいい松岡國男を、水野葉舟は、島崎藤村と同等に評価しているのである。
『代表作新体詩集 心の響』に収録された松岡國男の詩は以下の43編である。
「かなしき園生」「あごよ歌へ」「わかれ」「谷の草」「磯の清水」「逝く水」「ある時(まつかぜさむき山かげの)」「心の花」「無題(恋ひて男子の死ぬといはゞ)」「夕づゝ」「うたかた」「夕やみ」「春の夜」「川の岸に立ちて」「野の家(あしびきの山のあらゝぎ)」「無題(わが恋やむはいつならむ)」「無題(君が門辺をさまよふは)」「友よいざ」「夕ぐれ眠のさめし時」「年へし故郷」「野末の雲」「人に別るとて」「思ひ出でゝ」「鶯がうたひし」「美しき姫に若者がいひし」「花蔭の歌」「都の塵」「園の清水」「月の夜」(*「月の城」と誤記)「無題(妹といこひてかたらひし)」「無題(あすの別をかなしとて)」「母なき君」「無題(そは何ゆゑの涙ぞと)」「夕の道に」「野の家(袖子が家のやねの草)」「小百合」「或る折に」「はかなき別れ」「ある時(人まつ山のもゝちどり)」「無題(なぐさむよしもありやとて)」「海の辺に行きて」「友なし千鳥」「磯間の宿」
*同題の詩、無題の詩については括弧内に冒頭1行を記した。
松岡國男の詩が発表された経緯について概略を示しておこう。
『文学界』49号(明治30年1月)に「野の家」という総題のもと、5編の詩を発表した。詩人としての松岡の名が知られるきっかけとなった。
各編に題はついておらず○印が表記されているのみである。冒頭の一行を紹介しておく。「○(足引のやまのあらゝぎ、)」「○(わが恋やむはいつならむ、)」「○(君が門辺をさまよふは)」「○(そで子が家の屋根の草)」「○(林のおくのさゆりの花)」。
宮崎湖処子編『抒情詩』(明治30年4月、民友社)に「野辺のゆきゝ」の総題のもとに30編の詩を発表した。
収録詩編は「夕暮に眠のさめし時」「年へし故郷」「野末の雲」「ある時(人まつやまのもゝちどり)」「○(なぐさむよしもありやとて)」「海の辺にゆきて」「友なし千鳥」「磯間の宿」「人に別るとて」「思ひ出でゝ」「鶯がうたひし(夢がたり)」「美しき姫に若者がいひし」「花陰の歌」「都の塵」「園の清水」「○(あしびきの山のあらゝぎ)」「月の夜」「○(妹といこひてかたらひし)」「○(あすの別をかなしとて)」「母なき君」「○(そは何ゆゑの涙ぞと)」「夕のみちに」「野の家(袖子が家のやねの草、)」「小百合の花」「一夜」「○(人のこゝろをうたがへば)」「ある折に」「暁やみ(きみがかど辺をさまよふは)」「はかなきわかれ」「○(我が恋やむは何時ならむ、)」の30編である。
*無題詩、及び同題の詩があるものについては冒頭1行を記した。
石橋哲次郎編『新体詩集山高水長』(明治31年1月、益子屋書店)に「野辺の小草」の総題のもとに松岡國男の18編の詩が収録されている。18編の内容は、「かなしき園生」「あこようたへ」「わかれ」「谷の草」「磯の清水」「逝く水」「ある時(まつかぜさむき山かげの)」「○(恋て男子の死ぬといはゞ)」「夕づゝ」「うたかた」「夕やみ」「春の夜」「川の岸に立て」「野の家(あしびきの山のあらゝぎ、)」「○(我が恋やむはいつならむ、)」「○(君が門辺をさまよふは、)」「友よいざ」「心の花」である。
*無題詩、及び同題の詩があるものについては冒頭1行を記した。
この本には大槻隆編『山高水長』(明治31年1月5日、文学同志会)という異本がある。4版(明治32年2月1日)が国立国会図書館デジタルコレクションに入っている。収録詩は石橋編のものと変わらない。理由は分からないが、明治期にはこうした同一内容で版元が異なるという本を見かけることがある。
『帝国文学』第5巻第6号(明治32年6月)に野上松彦名義で「別離」「人に」の2編の詩を発表し、これが詩の公表の最後の機会となった。
水野葉舟は、アンソロジー『代表作新体詩集 心の響』に松岡國男の詩を収録するにあたって、『新体詩集 山高水長』に収録された「野辺の小草」18編を先に配して、その後に『抒情詩』の「野辺のゆきゝ」収録詩編から「一夜」を除き、重複を避けて25編を置いたと思われる。
松岡國男の詩のすべてを収録した本として入手しやすいのは、ちくま文庫版『柳田國男全集 32』(1991年2月)だろうか。『抒情詩』『山高水長』収録詩とそれ以外の拾遺詩編が集成されている。
「人の声」を発した初めの一人
各詩人の項の初めには、水野葉舟が解説を書いている。松岡國男のものは長文で、水野葉舟が松岡國男(柳田國男)をどう見ていたかがうかがえるので、コメントを付しながら、その一部を紹介したい。
水野は柳田の学問について、民俗学ではなく「日本民族学」としている。1916年当時はまだ「民俗学」という語は定着していなかった。
続けて水野は、初めて個人の感情の発露を詩に表現しえた詩人の一人として松岡國男を評価している。
「人の声」とは、感情を率直に流露させるということを示している。定型的修辞に感情を埋もれさせて、言葉の綾をかざることではなく、感情の表出を第一義と考えるということである。
詩が「人の声」となるには、定型的な修辞の歴史的な累積が作り出す価値観をつきくずす表現が必要とされるはずである。
水野葉舟の松岡國男の詩の表現についての評価は、解説の末尾にある次のような部分によく示されている。
じつは、43編の松岡國男の詩を読んでわたしは驚いた。『抒情詩』収録の詩は、引用されるものもあり、よく知っていたが、『新体詩集山高水長』収録の詩にはあまりなじみがなかった。水野葉舟は、恋愛詩以外の要素も含む『新体詩集山高水長』収録の詩を先に配置していてその編集も新鮮であった。
まとめて一気に作品を読むと、水野葉舟が「静かで悲しく、感傷し易い心で秋の空のやうに澄み切つて美しく、聡明である」と比喩と形容を重ねている評価も腑に落ちてきた。
ただ、もう少し別の言い方で松岡國男の詩の魅力を表現してみたい。静かな悲哀と、秋空のような聡明さとは、どのようなことを言うのか、詩の言葉を評価することで確かめてみたいのだ。
松岡國男の恋愛
詩を味わう前に松岡國男の恋愛についてまとめておこう。
松岡國男が詩から離れたのには、成就しなかったその恋愛体験が深くかかわっている。文学上の友人、田山花袋は、松岡の恋愛体験を聞いてそれを『野の花』(明治34年6月8日、新声社)という小説に書いた。田山花袋宛の松岡國男の手紙が公表されて、小説に描かれたことはほぼ事実をもとにしたものだということがわかっている。
兄の家に世話になっている定雄は、亡き母と親しかった「おばさま」と呼んでいる未亡人のもとに裁縫を習いにきている染子という娘に思いを寄せている。大学1年の時、「おばさま」にそのことを打ち明けようとするが、学生の身でまだ早いという判断から「おばさま」はそれを抑止する動きに出る。
ところが、素封家である隣家の娘、秀子は定雄に思いを寄せていて定雄にせまってくる。ふたりの女性にはさまれて、定雄は身動きがとれなくなる。東京から来た従兄が、見かねて隣家の娘、秀子との縁談をまとめるように動く。縁談はまとまるが、定雄は、それを受け入れることができず出奔してしまう。
浮舟の男性版のような話で、間の悪さ、すなわち「運命」が悲劇の原因だとされて、小説は終わっている。
染子のモデルは伊勢いね子という女性で、その出自、来歴は、岡谷公二『殺された詩人 松岡国男の恋と学問』(1996年4月25日、新潮社)所収の「松岡国男の恋」という文章に詳しく記されている。
岡谷氏は、『野の花』に描かれている時期以降も、國男といね子の間にやりとりがあったが、明治32年の前半までに破局したと考えている。明治32年6月に松岡國男が詩から離れるからである。
いね子は明治33年3月、結核のため18歳で亡くなっている。
いね子が松岡のことを憎からず思っていたということは、いね子の没後にその友人から松岡に知らされた。
岡谷氏は、いね子の実家について次のように記している。
いね子が物心つくころには、父は隠居しており、店を切り回していたのは、15歳年上の兄菊次郎だったとも記されている。
いま、いね子の兄菊次郎の視点に立って、松岡國男をとらえてみよう。年上の兄は帝大の学生である松岡と妹のいね子がうまくやっていけるか、懸念しただろうか。また、商売人と未来の官吏では住む世界が異なると思っただろうか。
こんな想像をするのは、あまりにもはかないいね子との恋愛を、もし現実化していくとして、その過程で起こるさまざまのわずらわしさに松岡國男は耐えられただろうかと、考えたからである。
岡谷氏の本を読んで、いちばん気になったのは、小説『野の花』に秀子として描かれている隣家の娘のことである。秀子にもお蝶さんというモデルがいて、この娘は後に養子をとったと記されている。
気になったのは、松岡が隣家小島家の娘との縁談を了承したなら、それは、後の柳田家との養子縁組と同じ質の事態になるのではないかという点である。
つまり、松岡にとって、ふたりの娘は等価なものとして認識されていたのではない。隣家の娘との縁談はあくまで現実的な選択であった。松岡家の六男である孤独でよるべのない国男が、結婚によって妻の実家の庇護を得られるという点でそれはきわめて現実的な選択であった。
それに対していね子との恋愛は非現実的な詩の世界に属していた。それを現実化すれば、詩ではなくなることを松岡國男は予感していたのではないだろうか。
隣家の娘との縁談を受け入れなかったのは、詩の恋愛を守るためであった。
そして、早すぎるいね子の死によって、詩は永遠に封じられることになったのである。
永遠の世界に通じる詩
『抒情詩』に収録された詩の総題が「野辺のゆきゝ」であり、『新体詩集山高水長』のそれは「野辺の小草」である。個々の詩にも「野」を含む「野の家」(2編あり)、「野末の雲」といった題名のものがある。
この「野」や「野辺」は、自然を示すとともに、そのなかで暮らす人々の感情のドラマの舞台でもある。
松岡國男が青年期を過ごした利根川の近くの茨城の布川、千葉の布佐の自然のイメージがもとにあるのはまちがいないだろう。
しかし、「野」「野辺」には、里山とその周囲に限定してしまうことができない抽象性が付与されている。それは幽冥界に通じる空間としてとらえられている。
「夕づゝ」という詩には、幽冥界に通じる抽象度の高い空間が現れている。「夕づゝ」とは宵の明星、すなわち、暮れ方に明るく輝く金星のことである。
「たそがれの国」とは、死者の住む国であろう。こちらからはうかがいしれないが、むこうからはこちらがみえている。
松岡國男は、明治29年7月に母たけを亡くしている。
「うし」、すなわち「こひしき皆」と死によって切り離されてしまってこの世がいとわしいと、わたしが感じるならば、「夕づゝ」よ、わたしを「たそがれの国」へいざなってほしい、というのである。
また、「夕かぜ」にむかって、孤独にさいなまれてやつれはてたわたしをなぐさめる亡き母の言葉をはこんで伝えてほしいと懇願している。
星や風は、「たそがれの国」からの使者としてとらえられている。
こうした超越的な世界へのあこがれが、松岡の詩には現れていて、それが藤村の詩との大きな違いとなっている。
「松岡国男の恋」(『殺された詩人 松岡国男の恋と学問』(1996年4月25日、新潮社、所収)で、岡谷公二氏は次のように記している。
自らが編者である新体詩のアンソロジーに43編の松岡國男の詩を収録した水野葉舟にも、「現実を超えたなにものか」に対する共感が存在したのではないだろうか。
『遠野物語』をめぐる、佐々木喜善、水野葉舟、柳田国男の三者のかかわりについて、横山茂雄氏は次のように記している。
詩の背後に流れていた他界への強い関心は民俗学にも受け継がれていたということになる。
さて、わたしが心をうたれた恋愛詩を一つ紹介しておこう。『新体詩集山高水長』所収の「ある時」という9行の短い詩である。
恋人は亡くなっていてその墓が山かげにある。
いね子の死の以前に作られた詩で、恋人の死は、その喪失を予感した設定である。
この詩をよむと、すぐエドガー・アラン・ポオの「構成の原理」という評論を思い出した。ポオは、最も憂鬱な主題が詩的である場合は、佳人の死を死別した男が語るときだという発想の順序を示して、次のように書いている。
詩「ある時」も、恋人の死を仮想して、最も憂鬱で詩的な感情を表現したものである。
わたしが惹かれるのは、古文の修辞に隠された感情の激しさである。感情の激しさをあらわにするため口語訳を示してみよう。
文語に封じられた感情を解放するとこうなるのではないかという、わたしの想像による口語訳である。
最後の1行「いづこかは我墓ならぬ」の反転は強烈である。うつつの世界が一瞬で悲哀の色に染まってしまう。その感情の強さが読むものにカタルシスをもたらしてくれる。
残余のこと
前節までで、わたしの書きたいことはつきた。
気になる残余のことについて記しておこう。
詩の収録に際して水野は柳田の許諾を得ていたか。
大正5年は、柳田は書記官長の職にあり、松岡名義の多数の過去の詩作の再録についてどう思ったか。
『代表作新体詩集 心の響』刊行後の評判はどうであったか。
1,2についてはよくわからない。また、アンソロジーの場合、現在では印税は著作権者で按分するが、大正5年にどうであったのかがわからない。この本は、引用部分でわかるように錯簡、誤植が多く、あわただしく刊行されたような気配がある。
3についても、新聞データベースにあたっていないので、よくわからないが、あまり目立つ反響は見出すことができなかった。
「心の響」という語句は、心のまことの流露ということを示す常套句で、多用されたことが次世代デジタルライブラリーの検索でわかった。
和歌、連歌研究者の福井久蔵に『日本新詩史』(大正13年、立川書店)という本があって、国立国会図書館デジタルコレクションで読めるが、松岡国男の詩の夢の表現を高く評価し、また水野葉舟の『代表作新体詩集 心の響』の刊行について書きとめている。
見落としがあるだろうから、反響について何かわかれば報告したい。
大正5年は、北原白秋、高村光太郎が活躍し、翌年には萩原朔太郎の『月に吠える』が刊行される。そのような時代に、松岡国男の文語の新体詩があらためて注目されることはなかったのだろう。
【付記】参考資料
○石橋哲次郎編『新体詩集山高水長』(明治31年1月、益子屋書店)*国立国会図書館デジタルコレクション、個人送信(登録必要)
○大槻隆編『山高水長』(明治32年2月1日、4版、文学同志会、初版は明治31年1月5日)*国立国会図書館デジタルコレクション、個人送信(登録必要)
○宮崎湖処子編『抒情詩』(明治30年4月、民友社)宮崎湖処子編『抒情詩』(明治30年4月、民友社)*国立国会図書館デジタルコレクション
○田山花袋『野の花』(明治34年6月8日、新声社)*国立国会図書館デジタルコレクション
○岡谷公二『殺された詩人 松岡国男の恋と学問』(1996年4月25日、新潮社)には、平凡社から出た『柳田國男の恋』(2012年6月)という増補版があるが、今回は参照していない。
○田中正明氏の「柳田國男の著作・著作収録書 書誌」(「国立歴史民俗博物館研究報告」165)、及び、福井久蔵『日本新詩史』(大正13年、立川書店)の年表では、『代表作新体詩集 心の響』の版元は、春江堂書店となっているので、本稿で使用した耕山堂版の他に異本があったと思われる。
*ご一読くださり、ありがとうございました。