ウィリアム・モリスと和泉式部:竹久夢二『山へよする』研究⑧
はじめに
今回は、扉絵の次の見開きの口絵を取り上げる。
まず、ご覧いただこう。
すぐわかるのは、ウィリアム・モリスの造本の見開きの構成を下敷きにしているということである。
文字は、和泉式部の和歌をローマ字で記している。
ウィリアム・モリスと和泉式部の組合せ。遠いものをその文化的コンテクストを気にせずに結びつけるのは、竹久夢二のデザイン技法の常套法である。
口絵の位置を示しておこう。
さて、この口絵にこめられたメッセージを読み解いていこう。
1 ウィリアム・モリス、そしてオーブリー・ビアズリー
先にもふれたように、この口絵の構成は、ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスの造本の見開きの構成を下敷きにしている。絵柄のある飾り罫が文字を囲んでいる。
ウィリアム・モリス(1834−1896)は、イギリスの美術工芸家、思想家で、最初はオックスフォードで学び、建築家をめざした。
1861年には、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、生活と美術を綜合するという理念に基づいて、住宅の内装、ステンドグラス、家具、調度品などの製作に取り組んだ。
1890年には、ケルムスコット・プレスを設立し、自ら考える理想の書物を多数製作した。
ケルムスコット・プレスの書物の版面の事例として、メトロポリタン美術館蔵の『世界の果ての泉(The Well at the World's End) 』(1896年)を紹介しておこう。
世界の果てにある泉の水を飲めば永遠の生命を得られるという。小国の王子ラルフはその泉に向かう旅をはじめた。
絵は若い騎士ラルフが森で鎧の乙女に出会う場面である。
物語はウィリアム・モリスの作で、挿絵はエドワード・バーン=ジョーンズが描いている。古写本の書体から学んだ装飾文字、葡萄をモチーフにした飾り罫などは、モリス自身のデザインをもとに木版におこされている。
モリスの版にある端正さは、竹久夢二の口絵にはない。竹久は字体の規則性よりも手書きの文字の揺れを楽しんでいるかのようで、それはモリスの版にはないものだ。
しかし、山、森、川、樹木、鳥の形象が飾り罫の役割を果たし、ローマ字で書かれた和泉式部の和歌は物語をつづる文字となっている。
また、最初の文字が飾り文字になっているのもモリスを踏まえている。
手書きの文字を規則的なものに修正しない竹久夢二の口絵は、ケルムスコット・プレスの美麗かつ精緻な限定本よりは、それを大衆化して多くの人々に届けたいという意図をもったデント社版の、ビアズリーの装幀、挿絵による、サー・トマス・マロリーの『アーサー王の死』の表紙の感触に近いともいえるだろう。
木版がもつ手業の感触がビアズリーと竹久夢二には共通している。むろん、それは『世界の果ての泉』のエドワード・バーン=ジョーンズの挿絵にもみられるものでもある。
J・M・デントは、ケルムスコット・プレスの限定本のような豪華な書物を、廉価で大衆に向けたものにするために『アーサー王の死』を企画し、新人であるビアズリーを抜擢した。
ビアズリーは300点余の挿絵を描き、この本は彼の出世作となった。
2 ウィリアム・モリスと竹久夢二
生活と芸術の距離を縮めるモリスの思想は、大正期に多くの日本の文学者、芸術家たちに受容された。
竹久夢二も影響を受けたひとりである。
上田周二氏の『私の竹久夢二』(平成11年10月、沖積舎)に、モリスと竹久夢二の関連にふれた次のような一節が見出される。
港屋は、大正3年10月に、日本橋呉服町で開店した、今でいうならファンシーグッズを販売した店である。竹久が離縁した妻、他万喜が運営に当たった。店開きの挨拶文では港屋は「いきな木版絵や、かあいゝ石版画や、カードや、絵本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな絵日傘や、人形や、 千代紙や、半襟なぞ」を取り扱うとしている。これらは、みな生活の中の小芸術であり、千代紙のデザインには、モリスの壁紙に通じるものが感じられる。
どんたく図案社は、大正12年5月に久本信男や恩地孝四郎ら若い仲間とともに結成された。宣言文によると、「画室から巷へ」出て、「あらゆる図案・文案」、「あらゆる美術装飾」を仕事とするという。生活の中の美術をさらに拡大して追求するという決意がうかがえる。しかし、9月1日の関東大震災によって、基盤となる筈の印刷所が倒壊したため、企画が実現することはなかった。
昭和5年5月に「榛名山産業美術研究所建設につき」という文章を竹久夢二が出した。それは、芸術の制作面にとどまらず、理想のコロニー内での芸術家の共同生活をめざすという側面を持つ計画であった。寄宿小屋一棟が建設されたが、竹久自身の渡米、渡欧、帰国後の健康悪化によって、開設されることはなかった。
『直言』や『日刊平民新聞』に社会批判をふくむコマ絵を寄稿することで出発した竹久夢二は、モリスが提示した社会主義的な理想郷についても関心があったと推測される。
3 理想郷
『ユートピアだより』はウィリアム・モリスが1890年に社会主義者同盟機関誌に発表した未来の理想社会のイメージを伝えた小説である。
社会主義者である主人公が夢のなかで、テムズ河畔にある未来の理想社会を訪れ、老人と対話して社会の仕組みについて知ってゆくというかたちをとっている。原題は、News from Nowhereである。この物語は1890年1月から10月にかけて、社会主義同盟の機関誌『コモンウィール』(The Commonweal)に連載され、翌1891年に単行本が刊行された。
この物語を堺利彦が『理想郷』という題で翻訳し、明治37年12月に、平民社から刊行している。抄訳であるが、そのエッセンスは伝わるようになっている。
平民社の近傍で仕事をしていた竹久は、この翻訳を知っていた可能性が高い。
『理想郷』の「十五 労働の報酬、文明人の偽善と残忍」における、仕事がどうして楽しみになったのかについての主人公と翁の問答を紹介しておこう。
仕事そのものが不愉快なものでも、仕事をすれば富や名誉を得られる。そこには楽しみが生じる。また、器械的な繰り返しのような仕事でも、それを楽しむ習慣が身についていれば、愉快を感じることができる。美術工芸の仕事は、そのものに楽しみが含まれている仕事だ、という。
これらのことは、根本的な社会の構造を変化させるものではない。やはり、一番たいせつなことは「無理に仕事を強いる事が無くなつて 誰でも自分の一番善く出来る事をすると云ふ自由を持つて居る」ということだと翁は語る。
しかし、なぜそれが可能なのかという理由については、詳しく語られているわけではない。
少し寄り道したのは、竹久夢二の『山へよする』には、理想を追い求める旅という要素がふくまれていると思うからである。
『ユートピアだより』には恋愛の変化についても筆が費やされている。抄訳版の『理想郷』には、八章に少しだけ紹介されている。
笠井彦乃との交際期間に竹久夢二は、エレン・ケイの『恋愛と結婚』も読んでいた。
恋愛と理想については、短歌を分析するときに言及することにしよう。
4 和泉式部の和歌
ローマ字書きされているのは『和泉式部集』にある和泉式部の和歌である。ローマ字表記の中にはさまれている1点、2点、3点の記号の意味は不明である。
和泉式部は大江雅致の娘で、長保元(999)年に和泉守であった橘道貞と結婚し、一女(小式部内侍)をなしたが、その後離縁した。冷泉天皇の皇子である為尊親王や敦道親王との和泉式部の恋愛が原因だともいわれる。両親王とも早逝し、その後、寛弘6(1008)年頃に、和泉式部は、一条天皇の中宮彰子に仕えたとされる。この歌は、宮廷に出仕していたころの作だといわれる。
『和歌文学大系53 和泉式部集 和泉式部後集』(令和6年7月、明治書院)の表記に従って、詞書がついているのでそれも含めて引用しておこう。
口語訳として、『和泉式部集・小野小町集 (日本古典全書)』(昭和33年10月、朝日新聞社)の、窪田空穂の頭注を引用しておく。
窪田空穂の注では、うかれ女は「好色の女」とされている。『和歌文学大系53 和泉式部集 和泉式部後集』(前掲)の青木賜鶴子氏の注では、より直接的に「誰とでも寝る女、との意をこめたのであろう」となっている。
「大殿」(藤原道長)の「浮かれ女」という評は、「誰とでも寝る女」として和泉式部を貶めるものである。
そうした外からの決めつけに対して、和泉式部の歌は、直接の関係者ではないのなら、人の恋のゆくたてを、あまりとがめだてしてくれるな、といなしているのである。
和歌の「逢坂の関守」という表現について、『和泉式部集全釈 正集篇』(佐伯梅友・村上治・小松登美、2012年6月、笠間書院)は、「夫とか父兄とか、女の逢瀬に文句の言へる立場の人ならともかく、の気持」がこめられているとしている。
また、青木賜鶴子氏は前掲書注釈で「逢坂の関を越える」とは、「男女が関係を結ぶ比喩」だと指摘している。
逢坂の関は、近江の大津の南、山城との国境にある逢坂山に設けられた関所のことである。
5 山と川と逢坂の関
竹久夢二がこの和歌を口絵に取り入れた動機や意味はどういうものなのだろうか。
背景奥の山は笠井彦乃を示し、手前の川は竹久夢二を示している(注1)。
和泉式部の和歌の中には逢坂の関、関守が出てくる。
左上奥の山(笠井彦乃)と、右手前の川(竹久夢二)の間をあたかもふさぐように逢坂の関を詠み込んだ和泉式部の和歌が配置されている。
「越えもせむ越さずもあらむ」について、『和泉式部集全釈 正集篇』(前掲)は、「それはまあ、あの方がわたくしと何かなさったかも知れないし、何もなさらなかったかも知れませんわ。」という解釈を示している。和泉式部に懸想して彼女の扇を持っていた男性との間に何かあったかなかったかはわからないと、和泉式部が道長に答えているという解釈になる。
『山へよする』の口絵に引用された場合では、逢坂の関を越すということが男女の関係の一線を越すという意味であるので、竹久夢二と笠井彦乃の恋愛についての暗示があるとうけとるべきであろう。すなわち、わたしたちの恋が一線を越すか越さないかはわからない、近親者であれば、関守のようにいろいろ口出しはできるだろうが、この本(『山へよする』)の読者たちは、どうか寛容であって、とがめだてしないでほしい、という願いをうったえているのではないだろうか。
6 飾り文字の中の〈目〉
「見開き口絵の構成」図で指摘したように、表紙画、扉に続いて、最初の一文字Kを飾り文字にした図案の中に目があり、こちらを見ている。人物の片目が描かれ、文字の隙間からこちらをのぞいているようにみえる。
〈一つ目〉表象については一章をもうけて検討するが、ここでは、それが暗示するものについて少しだけ述べておこう。
先に掲げた「『山へよする』巻頭のページ構成」図をたどると、読者は『山へよする』という書物が作者がかかわる恋愛についての物語をふくむということをだんだん理解していくだろう。
わたしたちは、さしだされた恋愛絵物語の読者であり鑑賞者の立場にある。それは物語の世界を客観的に眺められるある意味、特権的な場所である。
しかし、描きこまれた〈目〉は、その特権的な場所にいる読者、鑑賞者を、物語のほうから見るという反転を示している。
これは、創作版画誌『月映』に掲載された、恩地孝四郎の木版画《抒情》シリーズの目のモチーフから影響を受けている。詳しくは、回を改めて考えることとしたい。
(注1)小川晶子『もっと知りたい竹久夢二 生涯と作品』(2009年8月、東京書籍)は、「口絵では、山と川は深い森に隔てられている。 楽しげに踊るように水が
流れ、川岸には花が咲き小鳥が歌っている。 どちらも幻想的でありながら、表紙は現実の思いが濃く、 口絵は理想郷を表したものであろう。」と指摘している(46ページ)。
*山の表象については下記記事参照。
*ご一読くださりありがとうございました。
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