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蛇と十字架:竹久夢二『山へよする』研究⑤
やっと連載5回目。
今回は「序の歌」の扉絵を取り上げる。
竹久夢二の他者のモチーフの借用事例の分析となった。
竹久夢二と一條成美の関わりが浮かび上がってきた。
1 蛇がからむ十字架
アートブック(詩歌と美術を融合させた書物)と見ることができる『山へよする』は中扉がたくさんついている。
今回は、三人の女性歌人が寄せた「序の歌」の中扉の画像を取り上げたい。
十字架に蛇が巻きついている画像である。
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*新潮社刊、初版は大正8年2月、図版は大正10年9月20日の第9版による
十字架はキリスト教の図像では、犠牲、あるいはキリスト教そのもの象徴だとされている。蛇は邪悪を示し、悪魔と同義であるという(注1)。
それゆえ、十字架と蛇の組合せは、キリスト教の真理が邪悪さに犯されているという暗示を含むことになる。
西洋美術で、蛇と十字架という組合せが描かれる事例は、キリスト磔刑図に見られる(注2)。十字架の根元にアダムのものとされる頭蓋骨が描かれることがあり、そのそばに、蛇が描かれることがあるという。
キリストの流した血によってアダムの罪が浄化されるという暗示があり、蛇は罪を象徴している。
竹久がこうしたキリスト教美術の描き方の規範を知っていた可能性は低いだろう。ただ、十字架と蛇の組合せの事例がキリスト教美術の伝統の中にあることは確認できる。
蛇が罪を示しているとすると、「序の歌」の扉絵は何を罪と認識しているのだろうか。
そのことを考えるために、3人の女性歌人の短歌をまず検討することにしよう。
2 三人の女性歌人の序歌
「序の歌」には、3人の女性歌人が2首ずつ歌を寄せている。
最初の歌人は、伊藤燁子。この名前になじみはなくとも、柳原燁子(1885−1967)という名前、あるいは白蓮という雅号を示せば、思い当たる方は多いだろう。
白蓮柳原燁子は伯爵柳原前光と柳橋の芸妓りょうとの間に生まれた。入籍して柳原家の次女となった後、子爵北小路随光の養女となり、15歳の時に北小路家の養子資武と結婚するが、20歳の時に離婚した。東洋英和女学校を卒業した後、九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と結婚したが、大正9年に社会活動家宮崎竜介と出会い、翌10年に伊藤家を出て、大正12年に結婚した。短歌は東洋英和時代に佐佐木信綱の竹柏会に入って指導を受けた。
伊藤燁子の2首は次のとおり。
わたつみの沖に火もゆる火の国に我あり誰そや思はれ人は
摩訶不思議噂の生みし我といふ魔性の女いくたりかすむ
1首目の「火の国」は熊本とその周辺を指すが、歌の前半は『日本書紀』に記述がある景行天皇が乗る船が海上の不知火に導かれてて無事に着岸することができたという故事を踏まえている。
「思はれ人」は、相手から恋い焦がれられている人という意味であるが、恋人を指すこともある。
ここは、火の国熊本を訪ねた伊藤燁子が、わたしが恋い焦がれる人は誰なのだろうと自問しているととるほうがよいだろう。火の国の火のイメージ、景行天皇の故事にある海上の不知火のイメージが、富豪の人形妻という役割に閉じ込められている伊藤燁子の胸の内のゆらぎを暗示的に照らし出している。
2首目は、炭鉱王の妻となりながら、歌を作り、文章を公表する燁子は、世間から好奇の目で眺められるということが前提になっている。「魔性の女」という語は、明治38年ごろから使用され大正7、8年には文学書を中心に広くみられる。
世間の目が作り出した噂の「魔性の女」のイメージが、自分の中にいくつか存在しているように感じられるというのである。
これらの歌は、宮崎竜介との出会いの前の時期に作られたと思われるが、家や保護者的男性の指示通りに生きてきた女性の内面に生まれた自由への渇望が内面的なゆらぎとして表現されている。
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二人目の歌人は茅野雅子。 増田雅子として、『明星』から出発した歌人で、ドイツ文学者の茅野蕭々と結婚した。
与謝野晶子、山川登美子と共著で、歌集『恋衣』(明治38年1月、本郷書院)を刊行した。
ほれぼれと涙ながして歌ふらむ恋のよろこび恋のかなしみ
うつくしき夢の奥よりこぼれ来し雫の玉の歌にかもあらむ
茅野の歌は、恋愛そのものより、恋愛を取り上げた歌のめでたさを称揚するものである。
2首とも平易でわかりやすい。
茅野雅子は、竹久が参加していた春草会の主宰のひとりであった。その縁で序歌をよせたものである。
三人目の歌人は、与謝野晶子。
あたり皆臙脂に染まり行く如しいと悩ましと語り給へば
誰よりもわかくめでたき身を持ちて物思ふ子は罪に問はまし
1首目の歌で「たいへん悩ましいことだ」と語ったのは、敬語が使われているので男性であろうか。悩みの言葉を発した途端、あたりが臙脂色に染まっていくようだというのである。晶子らしい想像の歌である。
2首目の歌は、少し解釈に迷うところがある。
「もの思ふ」という言い方は古語では常套句として使われ、物事を思い悩むということを示している。「もの思ふ」をくよくよ思い悩むととれば、「わかくめでたき身」という身体性との対比が浮かび上がる。そうとれば、この歌の主意は、ただ思い悩んでいるのではなく、恋の実践に一歩を踏み出しなさいという意味になるだろう。一歩を踏み出さないなら、罪に問いたい、というのである。
もう一つの理解は、「物思ふ」を恋に悩むという意味に限定して、壮年期の40代に達した歌の作者から見ると、若く健康な娘が恋に思い悩むのを見ると、少し嫉妬の気持ちがわいてきて告発したくなってしまう、という意味だととるのである。
与謝野晶子が序歌を寄せたのは、雑誌『新少女』に、大正4年4月から11月まで掲載された、自伝エッセイ『私の生ひ立ち』に竹久が挿絵をつけたことが機縁となっているのであろう。
3人の女性歌人の序歌は、それぞれ大なり小なり、女性の視点から恋愛についてふれたものである。
笠井彦乃と竹久夢二の恋愛と短い共同生活を短歌と絵画で表現した『山へよする』への導入として、恋愛や女性の苦悩を歌としてきた3人の女性歌人に依頼して「序の歌」を寄稿してもらったのである。
「序の歌」の扉絵の蛇が絡みつく十字架の画像は、恋が罪であるという認識を示している。個人の自由に対する明治大正期の抑圧を示すために、キリスト教的な罪の規範を下敷きに使いながら、恋が罪であることを暗示的に表現しているのである。
夏目漱石の『こころ』(大正3年9月、岩波書店)には、「先生」と「私」が歩きながら、恋と罪について語る場面がある。対話を打ち切るように「先生」は、「この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」と語った。
恋が「罪悪」であり、かつ「神聖」であるというのは、当時のロマン主義的な恋愛観をよく示している。蛇が絡む十字架の画像は、罪悪であり神聖でもある恋を示している。それはキリスト教の画像規範を通俗化した果てに現れたものである。
しかし、ここでたちどまりたいのは、『山へよする』という書物は短歌と絵によって、恋愛のその後も描いているということである。
すなわち、竹久と次男不二彦と笠井彦乃の不思議な共同生活という、恋愛のその後を描いている点で『山へよする』はとてもユニークな書物なのである。
3 中村春雨『無花果』の一條成美の表紙画
いろいろ調べるうちに、竹久が参照したと推定される、一條成美の装幀事例を見つけることができた。
中村春雨の小説の出世作となった『無花果』は、明治34年2月に大阪毎日新聞の懸賞小説の第1等となり、紙上に連載された後、7月に金尾文淵堂より刊行された。装幀、表紙画を担当したのは一條成美である。
まず表紙画を御覧いただこう。
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表紙画 一條成美
*綴じ紐はオリジナルにはなく、補修されたものである
十字架に蛇が絡みつき、下部には無花果が描かれている。蛇の向きが異なるが、竹久の『山へよする』の「序の歌」の扉画像とよく似ていることがわかるだろう。
2つの穴をあけて赤い紐で綴じているのは、背表紙が剥落したために所蔵者が補修をほどこしたもので、オリジナルのものにはない。
一條成美は、竹久夢二が最初の画集『夢二画集 春の巻』(明治42年12月、洛陽堂)を出して挿絵界のスターになっていく階段を上り始めたその翌年、明治43年8月に34歳で亡くなっている。
一條の『明星』、『文庫』、『新声』でのはなばなしい活躍のことを、竹久は知っていただろう。『無花果』の表紙画のことが記憶に残っていて、そのモチーフを模倣したのに違いない。
無花果が描かれているのは、エピグラフに『新約聖書』の『ルカ伝』の第13章のエピソードが引用されているためである。
シロアムの塔にの崩壊によって命を落とした人びとは、特に罪深かったのではない。誰しも悔い改めなければ、同じように滅びてしまうことだろう、と書かれた後に、農園の実を結ばない無花果の樹の喩えが語られる。
ブドウ畑に1本の無花果の樹があるが、実を結ばないので、主人は園丁に切り倒すように命じる。園丁は、樹のまわりに肥料を施してみるので、1年待ってほしい、それでも実をつけなければ切り倒して下さいという。
このエピソードの実をつけない無花果は、悔い改めないユダヤの民を示しているという。
小説のコンテンツに関連付けると、無花果は主人公の悔い改めに関連している。
中村春雨(本名、吉蔵)は、メソジスト教会で受洗し、米国に留学し、キリスト教の影響が濃い小説を書いた。明治末以降は、本名で劇作家として活躍する。
『無花果』のストーリーの大略は次のようなものだ。
牧師鳩宮庸之助は、アメリカ人の妻恵美耶を伴って帰国し、刑務所の教誨師となる。庸之助と以前交際があり、子をみごもった岸野沢が罪人として刑に服していることを知り、庸之助は苦悩する。
脱獄した沢をかくまった庸之助は罪に問われることとなる。
一方、妻の恵美耶は、いじめに耐えながら、信仰の道を貫き、庸之助はやがて救済されることになる。
一條成美は、庸之助の信仰の揺らぎと迷いを、蛇に巻きつかれた十字架の画像で示し、エピグラフの『ルカ伝』13章の逸話を踏まえて、悔い改めのしるしとして無花果を描いたのである。
『無花果』には改版本があって、そちらには鏑木清方の流麗な口絵木版が入っている。
書影と口絵を紹介しておこう。
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*改版初版は明治39年5月5日
十字架と無花果というモチーフは、継承されているが、蛇は描かれていない。十字架の下部に○にXのサインがあるが、だれのものかは特定はできていない。
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口絵は多色木版で、清方の作の中でも出来のよいものだ。恵美耶を描いている。当時の青年読者は庸之助の苦悩に心を寄せてこの小説を読んだが、光明を追求する信仰の人恵美耶が主人公だという認識を口絵は示している。
4 トレースする竹久夢二
『無花果』の一條成美の表紙画と、『山へよする』の「序の歌」の扉絵の相似を確認するために、並列した図版を掲げておこう。
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右:中村春雨『無花果』表紙画 一條成美 明治35年12月10日6版*初版は明治34年7月15日金尾文淵堂
竹久夢二には、いくつか模倣の事例があるが、よく知られているものを紹介しておこう。
絵入小唄集『どんたく』は、大正2年11月、恩地孝四郎の装幀で実業之日本社から刊行された。
16枚のコロタイプの挿絵が挿入されており、「断章」の中の紅茸の詩に合わせた絵がコピー作品である。
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*初版は大正2年11月5日
このことを指摘したのは荒木瑞子氏で『夢二逍遙』(2006年7月、西田書店)に収録された「「どんたく」の絵」(初出は、1998年8月、『らぴす』第9号、初出時の題名は「『どんたく』を読む」)で次のように指摘している。
実はこのさし絵が、模写と知るのは、一九九二年、不二彦氏(次男)が所蔵しておられた夢二の切抜帳を拝見したときである。白樺の木立の中に鮮やかな紅茸の女性が、『どんたく』に入れたのと同じ人数の子どもと座る彩色画で、左下に Wo die Buchen dämmern というタイトル、右下にEd. Okun のサインが入る。
E・オクン(一八七三一九四五)は、ワルシャワで出た文学・芸術雑誌「ヒメラ」 (CHIMERA,一九〇一一~一九〇七・一二)やドイツ・ミュンヘンで出ていた通俗雑誌「ユーゲント」に寄稿していたポーランドの画家である。
荒木瑞子氏は、上掲の図と同じ絵を、竹久夢二の次男不二彦が所蔵していた切抜帳の中に見出したのだという。
エドヴァルド・オークン(Edward Okuń)は英語版ウィキペディアに立項されている。
『ユーゲント』は、1896年にミュンヘンで発刊された、芸術文化のための雑誌で多くの図版が掲載された。
たまたま入手したドイツ語の古書Dreitausend Kunstblätter der Münchner Jugend(『ミュンヘンの「ユーゲント」の図版3000枚』1909年)にオークンの画像を見出すことができた。
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1909年
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*1904は年号ではなく図版番号である
荒木氏によれば、絵の題はWo die Buchen dämmernとなっており、《ブナの木の夜明けの場所》というほどの意味であろうか。
『ミュンヘンの「ユーゲント」の図版3000枚』では題は、Die Pilzfamilie《キノコの家族》となっている。
並列した図版をあげておこう。
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左:竹久夢二『どんたく』大正11年6月20日31版*初版は大正2年11月5日
背景の樹木や、子どもの位置など細部が異なっているが、模倣であることは明らかである。
高橋律子氏の『竹久夢二 社会現象としての〈夢二式〉』(2010年12月、ブリュッケ)は、さらに調査を深めて、竹久の『ユーゲント』からの「イメージの流用」について多くの指摘をしている。竹久のスクラップブックの概要が示され、オークン以外の模倣例も示されている(注3)。
高橋氏の調査によれば、オークンの絵は、『ユーゲント』1906年46号に掲載されたものである。
(注1)ジェイムズ・ホール著『西洋美術解読事典』(1988年5月、河出書房新社、監修高階秀爾)「十字架」の項、157ページ。「蛇」の項、298ページ。
(注2)同前。「「磔刑」の項、「〔9〕頭蓋骨と蛇」、216ページ。
(注3)高橋律子『竹久夢二 社会現象としての〈夢二式〉』(2010年12月、ブリュッケ)「第八章 繰り返されるモチーフーースクラップブックと夢二式写真」。スクラップブックについては、297−306ページ参照。「ユーゲント」からの「イメージの流用」については、307−312ページ参照。
*ご一読くださりありがとうございました。