アート鑑賞で「ととのう」
ご無沙汰してます。ぎゃびーです。
前回の投稿からだいぶ日を開けてしまいましたね。
ここ最近は、何かとバタバタな日々でした。
頭の中が色々なものでとっ散らかって、これはまずい、と感じたのです。
その時たまたま友人から遊ぼう、と連絡があったので、私は「アート見に行こう」と誘いました。
そして私たちは、夜遅くまで入場できる六本木の森美術館へ。
展示のチョイスは芸大出身の友人に任せ、「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」 に行くことにしました。
色々と感じたものはありましたが、今日はChim↑Pomについてはいったん置いておき、「私にとってアートを見に行くとは」について語っていきます。
〈 頭の中が「ととのう」習慣 〉
私は、何か悩み事や気掛かりがあるとき、頭がパンクしそうなときに、よくすることがあります。
それは、今ある悩みから一旦逃げて、「ものすごく壮大で根源的な問い」に思いをはせること。
「宇宙ってどこから始まって、どこまで続くのかな」
「地球に生命が誕生してから、人間のように思考をする生き物が生まれるまで、一体どんな偶然の重なり合いがあったんだろう」
「空間と時間に終わりはあるんだろうか」
そして、自分の中で思考の限界を超えた時、
頭が「強制シャットダウン」されるような感覚が来るのです。
今まで沢山開きっぱなしにして散らかしていた小っちゃいタスクが全て消されて、再起動すると何もかもリセットされているような。
体感的には、サウナの「ととのう」に似ているかもしれません。
日常生活ではありえないくらい暑い領域にあえて足を踏み入れ、体の水分を限界まで出し切った向こう側で味わう、あの感覚。
〈アートミュージアムは思考のサウナ〉
先ほど、壮大なことに思いをはせる話をしました。でも忙しいときほど、意外とセルフでこれをするのが難しいんです。そんなことを考える前に、やらなきゃいけないことがありすぎるから、考えること自体を忘れてしまったり、考え始めても中断してしまったり。
そこで私は時々アートミュージアムに行くことで、ある意味強制的に、自分を思考のサウナのような所に放り込むのです。
アートはしばしば、根源的な問いを私たちに投げかけます。
自分とは?人間とは?生命とは?物質とは?時間とは?空間とは?
過去とは?現代とは?未来とは?
生とは?死とは?魂とは?
答えのない問いをひたすら考えながら、限界を迎えて、プツンと思考がシャットダウンされる瞬間を待ちます。
そして元の世界に戻り空気を吸い込むと、まさに「ととのう」感覚になるのです。
〈虚しさという代償と、虚しさとの共存〉
これまで述べてきたことには、実は副作用もあります。
「壮大で根源的な問い」に出会うと、日常のちっぽけな悩みからは解放されます。でもその代償として、自分の存在や、自分の生きるこの瞬間の「虚しさ」を自覚してしまうことがあるのです。
アートを見に行くようになって初めの頃はよく、どうしようもない虚無感に襲われていました。
リセットされるのは良いけど、リセットされすぎて「何もかもどうでも良くなる」という感覚でしょうか。
でも、回数を重ねていくうちに思うようになったことがあります。
それは、「虚しさとの共存」。
人間だれしも、人生のどこかで虚しさを感じる時が来ると思います。
でもアートを通して、作為的にその虚しさと向き合う時間を作っていくことで、徐々にそれは、自分を苦しめなくなっていることに気付いたのです。
どうでもいい人生だけど、取るに足らない自分だけど。
別にそれも良いじゃないか。
と、案外ポップに受け入れられる。
アートは、日常で感じる表面的で小さな悩みも、それから時々感じる根源的な虚しさからも、私を解放してくれるのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
アートをどう楽しむかは人それぞれですが、こんな楽しみ方もアリじゃないでしょうか?
(ちなみに今回友人と行きましたが、ミュージアム内では各々マイペースに鑑賞を楽しむというスタイルを取りました。個人的にはふらっと一人で行くか、私と友人のようにお互い一人になれる人と同行するのがおススメです。)