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注意欠如多動性、ADHDに救われる生き方もある

30代半ばになってもなお、自分は何か人と違うと感じることがある。自分が何者かを判断できないモラトリアム傾向がある。

先にお断りするが、自分が優秀で高尚な人間だとか選ばれた特別な存在などとは微塵も思っていない。

周りの友人や同僚、上司、部下が当然のようにこなすことを僕はできないことがある。

家の鍵を差しっぱなしで出勤して、帰って初めて気がついたり、水道を出しっぱなしで外出し、家に帰ると床が浸水していたり、お金の管理が苦手で、あったらあるぶん使ってしまったり、課題を先送りにして期日に間に合わなかったり、興味の無い話に集中できなかったり。
子供の頃には忘れ物も多かった。単純な入力作業でケアレスミスをしない方が珍しい。
車で接触事故も何度か経験した。

その度、自分は人が苦労なく、こなしていることがなんでできないのか、劣等感を感じる。

ただ、自分が怠惰な人間。ダメなやつだと思いつづけてきた。そんな経験から、自分は欠落した人間であるとラベルを貼り、挑戦することも避けてきたように思う。

心の奥には充実した生活を送りたい気持ちがあるし、たまーに自己肯定感爆上がり期もあり全能感を感じる瞬間もあるが長続きしない。
こうなりたい、と自分を律しようと考える反面、出来っこない、またできなかったときに自己否定しないといけなくなるんだからやめておけ、とブレーキを踏むもう1人がいる。

近年ADHDという障害をよく耳にするようになった。本来小児性のものを指すことが多かったこの言葉だが成人ADHDも存在が認められているという。

本を購入して勉強してみた。
なるほど、思い当たる節もある。
ただ、僕には他者への攻撃性は無いし社会生活がままならなくなるほどの経験は少ない。あ、いや前職を辞めたのは多少そういった傾向もあったのか。

ただ、多少の緊張感を抱えることは多いものの幼い頃から人間関係のトラブルで苦しんだ記憶は無い。
学校や会社では少ーしだけ変わったご機嫌なやつだと思われている場合が多いと思う。

僕は取り繕うことに長けている。嘘を上手に使っていると思う。誰かを傷つけたり貶めるための嘘では無く、自分がごく普通の皆んなと同じ人間であることを装う嘘だ。
そしてその嘘が面倒になったら人間関係を徐々に遠ざけるからトラブルにはならないがいつの間にか連絡を取らない存在になることが多い。

そうやってなんとか普通の自分を保ってきた。
でもたまに叫びたくなるほど、たまらなく絶望する日もある。

ADHDと診断されるかはわからない。本当にADHDに苦しんでいる人から見れば軽く語るなと思われるだろう。気を悪くされた方には謝ります。
ただ、程度の問題はあれ上手く生きている人に比べるとそういった特性があるのだと分かった。それを自身で認めることは許してほしい。

ADHDは遺伝の傾向もあるらしい。

なるほど、じゃあこんな怠惰な僕も僕の能力ややる気の問題じゃないんだと思うと少しばかり楽になった。
自分を責める必要もなく、ただそう言った特性を持っているだけだ、そんな心の拠り所を一つ作れたことが大きな救いのようにも思う。

やはり、仕事もできて生活が充実している人に憧れることもある。だからそんな人になることを諦めたわけでもない。
そうなりたいと思い、行動もする。
でもそれができない自分を否定するのはやめようと思う。

衝動的で短期的な行動であっても、こんな自分がチャレンジしたことをよくやっていると思えるようになってきた気がする。

自己否定の裏には他者への否定がある。
他人の目が気になるのは実はもう1人の自分の目が気になっているんだと思う。視線は常に自分のものしか見えない。自分というフィルターを通して他人の視線を想像する。

それなら、まずは自分を許容し、自分の特性を受け止める。それは決して否定的なものではない、客観的な事実として受け止める。

そうやって自分を愛してやると、想像しうる他者から目もポジティブなものになるだろうひ、誰かや社会も愛せるようになっていくと信じていこう!!

なんて考えるのも衝動的に朝活をがんばろうと思って早起きして朝走った今日である。
明日には寝坊かもしれないが、それも僕だ。
またどこかで始めればいい!

なんか楽かも。今日も頑張っていきましょう!

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