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フランツ・カフカの「ロボット」
フランツ・カフカの『城』
測量士のKは深い雪を踏み分けて、とある小村を訪れた。そこはいくつかの建造物を組み合わせた「城」によって見下ろされ、そして支配される地だった。自らの職分である測量を行うために外部より呼び寄せられたKだったが、閉鎖的な村からの不審、依頼人であるはずの「城」の内部との行き違い、押しては引き、引いては押されるやり取りで、作業はまったくはかどらず、やがて自身も意識しないうちに「城」の支配する村の一部に組み込まれていき、進も戻るもできない迷宮的な状況にはまり込んでいく。
フランツ・カフカが執筆した最長の、そして最後の長編小説『城』です。
国道から離れてしばらくの鄙びた村というロケーション、よそものである主人公Kに向けられる村人からの好奇と疎外の眼差し、村と城の覆しようのない絶対的な格差、城内部での堂々巡りを起こしているのではないかと思わせる命令系統、そして一面を覆う厚い雪……
カフカお得意の、真綿で首を締めつけるような閉塞感が、どんよりと鈍色の雲のようにかぶさってきます。
雪という効果的な舞台装置もさることながら、おそらく20世紀初頭にあっても既に前時代的と感じさせただろう僻村の光景は、距離的にも時間的にも隔絶された状況と受け取らせます。
ところが、そんな隔たりが、不意に埋まる瞬間があります。
「そうではありません。けれども、わたしだって、ロボットじゃありませんからね、やむなく自分の意見を口に出してしまったまでです。しかし、わたしが言いつかってきた用件は、村長さんのご厚意をさらに証拠だてるものです。はっきり申しあげておきますが、村長さんがなぜこんなに親切になさるのか、わたしは納得しかねているのです。わたしがこの用務をはたすのは、自分の地位上しかたがないためと、村長さんを尊敬申しあげているためにほかなりません」(新潮文庫、前田敬作訳)
これはまだ前半の第7章で小学校教師がKに向かって放つセリフです。つっけんどんな口ぶりからも、Kの置かれた不条理な立場の片鱗がうかがえます。
けれども、ここで私が引っ掛かったのは、冒頭に飛び出す「ロボット」という単語でした。
カレル・チャペックの「ロボット」
――ロボットが誕生したのはいつか?
機械工学や科学の見地からいくと、解答は必ずしも単純にはいかないかもしれませんが、文学史的には唯一の答えが用意されています。
それは1920年、カレル・チャペックによって書かれた戯曲『R.U.R.』に登場した単語をもって嚆矢とします。
この演劇に登場する人工的に生み出された労働者を表すために作られた造語こそがロボット(robot)だったのです。
そしてカフカの『城』の執筆は1922年とされていますので、時代的にも文中に使用されていても無理がありません。
これを見つけたとき、私はわくわくと胸が高鳴るのを抑えられませんでした。
過去に根を下ろす閉鎖的な空間を舞台とした物語に、突然当時の最先端ともいえる単語があふれ出してきて穴を開けたから、ではありません。
カフカとチャペックの思わぬ接点を見つけたかもしれないと、思ったからなのでした。
フランツ・カフカとカレル・チャペック
フランツ・カフカ(1883-1924)とカレル・チャペック(1890-1938)、この二人はともに現在のチェコ出身の同時代作家にあたります。
けれどもカフカは生前に数冊の短編集を出したきりで、基本は保険局員として生涯を閉じ、死後「変身」などの作品が評価され孤高の20世紀を代表する作家として国際的な名声を得ていく一方で、チャペックは『R.U.R.』をはじめ、古典SF『山椒魚戦争』などの小説やエッセイ、さらに新聞論説で名声を確保し(生活は楽なものではなかったようですが)生前から今日にいたるまでチェコの国民作家としての地位を維持するという、非常に両極端なポジションにいます。
特に日本では、カフカの特殊性を尊ぶあまり、さほど熱心には他作家との比較が行われてきていなかったように感じられ、それだけに発表されて間もない時期にロボットという単語がその文章内に現れたことに大変驚きました。
同時代の、チェコの、それもSF的な作品にもカフカが目を向けていた!
これはさらに大きな興奮を引き起こしました。
『城』に「ロボット」はいたのか?
ただ、実をいいまして、この私の興奮はまったくの見当違いでした。
カフカはチェコ生まれですが、その作品はドイツ語で書かれています。そこで原語版の『城 Das Schloss』を調べてみました。
問題になるのは会話のはじめの部分だけですから、そこを引用してみます。
»Nein«, sagte der Lehrer, »aber ich bin kein Automat und mußte Ihnen meine Meinung sagen…
ハイ、どこにもrobotという単語はありませんでした……
書かれているのはAutomat、日本語では「自動人形」と訳されることの多い単語です。
歯車とバネの機械仕掛けで作られた、ロボットの前時代的制作物として意味されることの多いものです。日本でしたらお茶汲み人形などのからくり細工が思い浮かぶでしょうか。
なるほど、カフカはrobotという単語を知らなかったのでAutomatと表現したけれども、日本だと自動人形よりもなじみがあるロボットが訳語に採用された。
蓋を開けてみればとんだ勇み足で、面目次第もない話でした。
ロボットは自動人形なのか?
ただ、ひとつ気になることがあります。
ここでのAutomatは、確かにロボットと訳せる使われ方をしています。人の代わりに、人に命じられるがままの行動をするそういう意味でしょう。だから小学校教師は反発して、自我を強調しているわけです。
そもそものrobotはチェコ語にもともとあった「強制労働」や「賦役」を意味するrobota(ロボッタ)という単語をもじったとされています。
『R.U.R.』では冒頭にロボットを端的に紹介する、次のような会話が用意されています。
ドミン ところでどんな労働者が実用的に一番いい労働者だとお考えですか?
ヘレナ 一番いいのですって? きっとあの――きちんと仕事をする――そして、忠実な。
ドミン いいえ、そうではなくて一番安上がりのです。経費がかからない奴です。若いロッスムは一番経費のかからない労働者を発明しました。それには簡単化しなければなりませんでした。労働のために直接役に立たないものはすべて捨ててしまいました。それによって人間をやめにして、ロボットを作ったのです。敬愛するグローリー様、ロボットは人間ではございません。機械的には私たちよりもより完全で、素晴らしい理性的知性を具えておりますが、魂は持っていないのです。グローリー様、技師の作り出したものの方が自然の作り出したものより技術的に完全なのです。(岩波文庫、千野栄一訳)
ここで描かれているのはまさに人工的な労働者です。労働だけを行うことを目的として作られた被造物です。
ではAutomatにそんな意味はあったのでしょうか?
日本語で訳されるオートマタ(オートマトン)、自動人形と聞きまして、まず頭に浮かぶのはヴォーカンソンのアヒルや、ポーにいんちきを暴かれたメルツェルのチェス人形といった、アヒルや人間そっくりに自律的に動くものであって、人間に代わって作業してくれるものでありません。
私は残念ながらドイツ語の教養がなく、ましてや20世紀初頭にそれがどのような意味を持っていたかはさっぱりわからないのですが、なんとはなく直観で違和があります。
現在、私たちはロボットという単語を、あまりにも一般的に使用してしまっているため、あたかもその誕生以前からもそうした人造労働者という概念があったかのように考えてしまい、いかにもロボットの前の機械人形だからAutomatにもそうした意味があるように受け容れてしまっているのではないか。
そう思えてくるのです。
どういう意味か。
つまり、カフカはrobotという単語を知っていたけれども、それを使用するのが憚られる事情があって、あえてAutomatという単語にrobotという意味をかぶせて使用したのではないか。
どういう事情でしょうか。
私が『城』という作品に感じていた通り、時代的にも疎外されたロケーションを設定するためにはロボットという新語は作品の雰囲気を損なうと考えたからかもしれませんし、文章の美学的に許容しがたいと思ったのかもしれません。はたまた、単純に、自分よりも年少にもかかわらず、『R.U.R.』の成功でチェコ文壇のなかで一躍重要な作家として名を刻みつつあったチャペックの造語を使いたくないと考えたのかもしれない。
もちろん全て妄想です。
ただ、私の早とちりをきっかけにしてでも、この関連がなかったと見えたふたりの作家に、なんらかの接点が生まれたらおもしろいことだとは思えます。
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![山本楽志](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/30222536/profile_597b8913eaa6ce3b7c19949e8e5b4b95.jpg?width=600&crop=1:1,smart)