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椎名誠化する解説とSFと

 文庫本の好きなところは、値段やサイズの手頃なのはもちろんなのですが、解説が充実しているというのも大きいです。
 作者以外によるその書籍についての短文ですね。
 執筆や掲載状況の説明など成立に関する説明も嬉しいですし、本文でわかりにくい個所の補足、そこからの展望などは参考になります。単純に作者と仲の良い裏話でもすごくお得な気分になれます。
 電車の乗り換えのちょっとした合間とか、待ち合わせで少し空いてしまった時間とか、本文を読んでいるときりが悪そうって時に読むにもちょうどよくて重宝するんです。

 で、最近そんな解説を読んでおりますと、「椎名誠の本の解説って文体が椎名誠っぽくなる率が高いような気がする」と思えてきたのです。

 椎名誠の文体といいますと自ら名付けた「昭和軽薄体」が有名です。

 アオイソメ、ゴカイ類が何匹もからみあってグネグネしているのを見ると恐ろしさのあまり息が荒くなる。もし誰かに捕らわれて拷問され、言わないとアオイソメ・ゴカイ丼(タマゴとじ三つ葉つき)を食え! さあ食え! というようなことになったらただちにすべての国家機密を話してしまう。しかし別に何の国家機密も持っていないから話すことは何もなかったのだ。まるで価値もないけれど我が個人秘密でよかったら全部喋ってしまう。
 それでも足りなければすべての友達の秘密も喋ってしまう。叔父さん叔母さんの秘密なんかでもよかったらそれも喋る。拷問している人の足の親指をしゃぶれといわれたらすぐにそうする。ムチであたしをしばいてしばいてと言われたらすぐにピシピシやってしまう。あーにを言っておるのだ。

『わしらは怪しい雑魚釣り隊』(新潮文庫、2009、p. 75)

 無差別な話題のふくらませに擬声語・擬音語の多用、しゃべり口調をそのまま文字化したような語彙の数々、セルフのボケツッコミ。長い文章でもかなりするすると頭に入ってきます。
 こうした文章がかなり幅広い年代の男女に受け容れられてきました。ただ需要があるばかりではなく、どうもこの椎名誠の文章はまねをしたくなる磁場を広げて、多くの人を捕らえてしまっているようなのですね。
 普段は懸命に隠していても、それがつい当の椎名誠の本の解説という場所だと、堪えきれずに溢れ出てしまうようなのです。

 どんな作家と麻雀してきたのかなあ。最初が「月刊現代」で藤原審爾さんでしょ。次が「週刊現代」で井上ひさしさん、「小説現代」へ移ってからは伊集院静さんや西原理恵子さん、鴨志田穣さん、藤原伊織さんもよく会社の前の雀荘にきてくれました。黒川博行さん、白川道さん、ちょっとだけ佐野洋さん、関川夏央さん。浅田次郎さんや大沢在昌さんとも点棒のやりとりをしてましたね。

土屋和夫「解説」(『コガネムシはどれほど金持ちか』集英社文庫、2013、p. 232)

 あぁ、この一冊には、椎名さんのエッセンスがぎゅうっと詰まっているなぁ。読み終えて、真っ先に思ったのはそのことだ。
 まず何より、タイトルがいい。かぐや姫はいやな女、と言い切ってしまう痛快さよ!そうなのだ、かぐや姫に関しては、みんな、口にこそ出さないけど、なんか無理じゃね?(ね?の言葉尻は⤴でお読みください)みたいな、調子こいてね? みたいな、恩知らずじゃね? みたいな、もやぁ~っとした感情を薄っすらと抱いていたはずなのだ。

吉田伸子「解説」(『かぐや姫はいやな女』新潮文庫、2019、p. 271)

 青年期の私にとって、シーナマコト・ワールドの何がそれほど魅力的だったのか? 語り始めれば、焚き火を前にしてとつとつと、何時の間にか時は過ぎ、やがて炎はおとろえ、おき火だけになったそのあたりだけが赤々と浮かび上がり、夜は更け、ビールも切れて、頼みのウィスキーも底をつき、仕方なしに入れたコーヒーを飲み終えてそろそろ夜が明けるか、という頃にやっと終える、というようなながーい話になるのだけれども、かいつまんで一番大事な要点だけを述べれば、次のようになる。

茂木健一郎「解説」(『ぱいかじ南海作戦』新潮文庫、2006、p. 310、311)

 男女問わず、元編集者も書評家も脳科学者も関係なく、みんな椎名誠調を見事に引きずっています。仮に椎名誠風に書くことが最も適切な解説方法だと考えたのだとしても、何人もの人間がそう思いつくということ自体が、椎名誠の影響力に捕らわれているといえるのではないでしょうか。

 さらにもっと強烈に椎名誠の磁場に絡め取られていたのは、大森望の次の「解説」でした。

 数ヵ月後、椎名誠SF三部作の第一弾『アド・バード』を読み終えた瞬間、この誓いはもろくも崩れ去っていた。突如、正義と真実のSF者に変身した大森は、月に向かって吠えた――十年に一度のこの傑作を紹介しないで、SF時評もくそもあるものか、と。だいいち椎名さんには会ったこともないからべつに仲間誉めじゃないんだもんね、本の雑誌社の内部事情なんか知らんもんねとつぶやきながらクビを覚悟で正義と真実の原稿を書き、さいわいその原稿はボツになることもなく掲載され、当然のことながら『アド・バード』は日本SF大賞を受賞して、ぼくのSF生命は断たれることなく今日にいたっている。そして、『アド・バード』(集英社)、『水域』(講談社)、『武装島田倉庫』(新潮社)とたてつづけに出版された椎名SF三部作は、その年のSF界のみならず、日本文学界最大の“事件”となったのである(文壇のことはよくわからないが、高橋源一郎氏がそういっているのだからまちがいない。『水域』を、日本文学における今世紀屈指の傑作と断じた文芸誌もあるくらいだ)。

『ねじのかいてん』(講談社文庫、1992、p. 220、221)

 ほとんど椎名誠が乗り移ったかのような勢いで解説は書かれていき、この調子は最後まで続けられます。
 このあたりが他の解説諸氏と異なるのは、SFをメインに据えている翻訳家の大森望がSF短編集である『ねじのかいてん』を任されたからこそといえそうです。

『ねじのかいてん』(講談社文庫)
SF作家としての椎名誠の認知度がまだ低かったことがうかがえます。

 実際、その数年後に出された、やはりSF系短編集『中国の鳥人』の文庫版「解説」でも同じように大森望は椎名誠調を全面に展開していくからです。

 なにが「だからですね」なのかというと――H川の説明するところによれば――椎名誠の本の中でもSF(と言ってはいけない以上、ここは「超常小説」と言うべきなのだろう)性が前面に出ているほど、読者を選ぶ傾向が強い。ありていに言えば、そのとんでもない面白さにもかかわらず、〈怪しい探検隊〉シリーズとか旅ルポとか身辺雑記エッセイとか、『岳物語』を筆頭とする私小説系列の本などと比べて、売れ行きに差があるらしいのである。
 売れ行きが悪いっていうけどさあ、じゃあこの本(『中国の鳥人』新潮文庫版)の初版はいくつなの、と訊ねてみると、わたしが日本SFの新刊文庫の初版部数としてイメージする平均値の五倍以上に達する数値が返ってきたので、それだけ売れりゃじゅうぶんじゃんかよ、と険悪な気分になりかけたが、現実にあったことが書いてある本のほうはその二倍三倍の売れ行きを記録しているそうなのである。日本SFとしては大きく胸を張れるベストセラーであっても、椎名誠の本としては物足りない、と、そういうことらしい。たしかに最近の出版業界の趨勢として、「売れる小説はミステリ、売れない小説はSFと呼ぶ」ことになっているので(←被害者意識による憶測)、「椎名誠の超常小説はSFと呼ぶには売れすぎている」と言われれば、これはもうすみませんと納得するしかない。

『中国の鳥人』(新潮文庫、1997、p. 237、238)
『中国の鳥人』(新潮文庫) 表題作と「スキヤキ」はまちがいない傑作です

 自分の土俵だからこその闊達な椎名誠調で、こちらもついぐいぐいと引き込まれてしまいます。けれどもここには、そのうっかり引き込まれそうになるのを留めないといけないことが書かれておりました。

「わたしが日本SFの新刊文庫の初版部数としてイメージする平均値の五倍以上に達する数値が返ってきた」

 その直後の「売れる小説はミステリ、売れない小説はSFと呼ぶ」も含めての話となりますが、この『中国の鳥人』の新潮文庫版が発売された1997年頃といいますと、綾辻行人以降のいわゆる「新本格」ミステリブームが順調に勢いを伸ばし、さらに京極夏彦のデビューが拍車を掛けて、清涼院流水によるキャラクター人気が胎動しはじめ、例えば同人誌即売会では大きなスペースが準備されるような、一般的な読者を超えた盛り上がりが形成されつつあった渦中にあり、同時に日本SFがやや苦戦を強いられていた時期だったのです。

 大森も同じ解説中でさらに「効率が悪いことに嫌気がさしてSFを書かなくなり、ミステリや冒険小説やファンタジー方面に去っていった作家たちが多かったことが現在の(ジャンルとしての)日本SFの衰亡を招いている」と書いていて、決して予断を許さぬ状況にあったことがうかがえます。
 その後、SF関係者の尽力が実を結び、現在のような大きな潮流を起こしてゆくことになるわけですが、その非常に厳しかった時代に、明確に販売数を出せる作家として椎名誠が存在していたというのは注目されるべきでしょう。

 もし仮に大森の語る「平均値の五倍以上」という数字が、他の著作でも適用されるとすると、94年に『鉄塔のひと その他の短篇』が単行本刊行、『水域』『胃袋を買いに。』が文庫化、96年に『みるなの木』『地下生活者・遠灘鮫原海岸』(文庫版)、97年ではSF作品ばかりを集めた編集本『机の中の渦巻星雲』さらに『アド・バード』が文庫化、という具合にコンスタントに椎名誠のSF作品が大量に書店に並んでいたことがうかがえます。

 作品の質はもちろんのことながら作品数と出版部数という点でも、1990年代後半の代表的なSF作家は椎名誠ということになるのではないでしょうか。
 そしてシーナワールドと呼ばれる、独特の造語が共通する同じ世界観のうえで、じわじわとくり広げられる日常世界を描く椎名誠のSF文法は、現在の日本SFに影響を根底で与えているように思えます。
 それは、つい解説文で椎名誠の文体がにじみ出てしまうのにも似た、静かな浸透力をもって。

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