〈読みもの〉春雨
春雨
雨が降っている。店はとっても暇である。と言っても忙しい日の方が珍しいくらい。それでも、今日という今日は誰も来る気配がない。書いている今は、三月半ば。窓を流れる雨滴を見つめて、この雨は春雨ということになるのかしら、とぼんやり思う。
春雨。ああ、はるさめ。あの細長くてつるつるした透明な食べ物に、雨の名を付けた人がどこかにいたのか。なかなか素敵で、なかなか勇気があると思う。麻婆春雨とか、チャプチェとか、既にいくつものおいしい春雨料理を知っているので、「春の雨だなんて、いい名前!」と思えるが、春雨という食べものを知らない状態で、「あのね、春雨っていう食べ物があってね。」と言われても「へえ、それはなんだかおいしそうだな」と思えない気がする。実物を見せられても、「これはいったい何でできているの?麺みたいな感じで食べたりするの?ずいぶんと透明だこと。味とかなさそう。それに食べるにしてはちょっと細すぎる気がする。僕はうどんで十分だね。」などと言ってしまいそう。と、こんなくだらない妄想を膨らませながら雨を眺めていると、こんにちは、と元気よく配達員さんが扉を開け入って来た。発注していた岩手のりんごジュースが届いたようだ。雨のなかありがとうございます、と言いながら受け取る。
もう春になったかと思われた東京も、今日はやけに冷える。全国の天気予報を見ると、岩手はなんと雪が降っているらしい。春雨、ではなく、春雪、か。いや、まだ岩手は春ではなく、冬、と言うべきなのかも。ふむ。春雪、という食べものがあったらどんなものだろう。寒さの厳しい地域において、「春が来る」というのは、長く厳しい冬を耐えてやっと訪れる特別なものなので、春になっても降る雪はあまり歓迎されるものではないだろう。冬の雪ほどさらさらしていなくて、みぞれ雪のようなイメージ。と書きながら、「みぞれ鍋」など、雪の名前を冠した食べものも存在していることに気がつく。天気の名前の食べものって他にもあったっけ、と考える。……蛤の時雨煮?あれは、どのあたりが時雨らしさなのだろうか。うーん、わからない。
春雪、に戻る。春の雪という小説があった気がする、と調べると、三島由紀夫だった。この小説にちなんだ「春の雪」という名の、ほとんど白に近い淡いピンク色の薔薇があるらしい。春雪。口に含むとあっという間に溶ける、でも何だか余韻の長く残る淡い食べものという感じがする。そんな味わいの珈琲が作れたら、面白いかもしれない。
さて、一ページ書き終えたが、まだお客さんは来ない。春の雨はなま温かい。
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