褒められたい女【サウナのサチコ『裸の粘土サウナー』第19回】
8時45分。よっちゃんは玄関で靴まで履いて、迎えの車がくるのをじっと待っていた。もう15分もそうしている。「寒いからリビングで待てばいいのに」という娘の声は聞こえない。最近動作がすっかり鈍くなった。
介護士がチャイムを鳴らしてからモタモタ靴を履くのでは、無駄に待たせることになる。そうした利用者が多いから、毎回車が時間通りに来ないのだ。私は違う。他の老いぼれ達とは違うんだ。よっちゃんは曲がってくる腰を精一杯伸ばした。
「デイサービスいこい(仮名)」の介護スタッフたちは皆、よしえのことを「よっちゃん」と呼ぶ。手先が器用なよっちゃんは、80を過ぎても針を持ち、施設に飾る季節ごとのオーナメントも、利用者の汚れた口元を拭くテッシュのケースも、頼まれれば何でも作った。
「よっちゃんありがとう」「よっちゃんがいてくれて助かる」介護スタッフたちにそれを言われることが、よっちゃんの生き甲斐だった。わがまま放題の利用者達の中で、自分が一番まともで、一番人気者だという自負がよっちゃんにはあった。
そのよっちゃんが今年に入って右足に痛みを感じるようになった。整形外科を受診すると股関節に人工関節を入れる必要があるという。左足も10年以上前に人工関節を入れていたが、80を過ぎて同じ手術をすることになるとは思わなかった。
よっちゃんは「この年でそんな大きな手術に耐えられるのか心配で」とうつむいてみせた。医師の「いや〜まだまだお若いですよ」という褒め言葉を期待して。あるいは「えっ、もう80を過ぎているんですか?」なんて言いながらカルテを二度見してくれることを期待して。しかし医師は「歩けなくなりますよ」とだけ。よっちゃんは医師を変えることにした。
デイサービスの中で一番まともで、一番人気者のこの私が歩けなくなる。よっちゃんの心は暗くなった。介護士を大きな声で呼びつけては、頻繁にトイレに行く車椅子の利用者たちを毎日見てきた。まさか自分もそんな風になってしまうのか。もしかしてパンツも下ろしてもらわないといけないのか。考えれば考えるほど惨めな自分の姿しか浮かんでこない。
大好きな針仕事も手につかない。よっちゃんはデイサービスを休み、家の布団にくるまって動かなくなった。娘は呆れて、「寝てばかりいると本当に歩けなくなるよ」と言ってくる。よくそんな無神経なことを。誰もこの辛さをわかってくれない。誰もこの辛さに耐える自分を褒めてくれない。よっちゃんの心はさらに暗くなった。
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