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#03 純粋理性批判?

 
深見とキツネは青山にある小さな蕎麦屋にいた。
蕎麦はうまくもまずくもなかった。

テレビがついていて、店主と思しき人物がニュースを見ていた。テーブルに手をつき、体をくねっとSっぽく曲げ、その絶妙な姿勢を保っていた。
真剣に見ているのか、それとも人生において見るべきものはもはや何も無いから、とりあえずそこに焦点をおいているのか、後ろ姿からはわからなかった。ジョジョ立ちだ、と深見は思った。

日本で初めて、国内感染した日本人が確認されたとのこと。
彼はツアー用長距離バスの運転手であり、武漢からの旅行者を乗せて運転していた。乗客に肺炎のような症状の人はいなかった、と話しているという。

どうやらこのウイルスは、症状の無い患者から感染が広まる可能性がありそうだ。厚労省結核感染症課の課長が、会見でそのようなことを言ってた。1月28日のことだ。

「ごちそさまでした」と深見は立ち上がり、レジに向かった。いつの間にかテレビのチャンネルは、『科捜研の女』に変わっていた。はたしてこんな番組を見ている人間など本当にいるのだろうか、とずっと深見は不思議に思っていたのだが、まさかジョジョが視聴者だったとは。

「はいよ」とジョジョが言って、だるそうにレジに歩いてきた。でも特殊な能力は使えなさそうだった。その顔はジョジョではなく、どちらかというと村上ショージだった。「ドゥーン!」と言われても、特に驚かなかっただろう。
深見は二人分の会計を済ませ、店を出た。

キツネはお金を持っていなかった。
キツネがいた未来においては、通貨などというものはもちろん跡形もなく消えているらしい。資本主義という言葉すら、彼らにとってはホモ・サピエンス史上最も長く信じられた虚構の一つということでしかなかった。彼らはしばしばそれをジョークとして用いた。
「バナナを一房もらえないかな?」
「それって資本主義的ね」
という具合に。

キツネが時間移動する前に存在したのは、2791年ということだった。すくなくともキツネはそう言っていた。

でも、キツネはここに来た理由ついては何も語らなかった。というより、語ったところで、それを深見が理解することは不可能だと言った。
「じゃあどうやってここに来たの?」
「来た、というのはいかにも21世紀的な表現ね」
「つまり、どういうことだろう」
「ただ存在しているのよ」

でもキツネはこれだけは教えてくれた。

「言っておくけど、こんな時代に、つまり21世紀に、ということだけど、好き好んで存在する人はほとんどいない。なぜなら、この時代は一番面白くない時代だからよ。いろんなことがどんどん面白くなくなっていく時代。人気がないの。28世紀では、私たちが扱う言語は地球の中ではほぼ統一されてる。だから、わざわざ好き好んでこの時代の言語を勉強しないといけない。そんなことをしてまで、この何もない時代にわざわざ存在しようとする人間はいない。でも私はここにいる」
「なぜ?」
「そんなこと私に聞かないでよ」

キツネによると、21世紀のホモ・サピエンスには時間と空間を、つまりユークリッド的な世界を知覚する能力までしか備わっていない。

しかし2791年においては、遺伝子の突然変異に伴い、ホモ・サピエンスの知覚能力が進化をとげ、それ以上の、いわばその外側の世界を知覚、認識できるようになっているということだった。進化した彼らにとって『時間』とは、「一定の速度で進み続け、後進することはない」という、矢印的なものではないようだった。

「だから私たちが認識する世界と、あなたたちが認識する世界はまるで違うのよ」とキツネは言った。
「どんなふうに見えてるの?」
「そうね、見ようと思うと『何か』を見ることができるし、見ようとしなければ『何も』見えない、って感じかな。『見る』っていうのとはちょっと違うんだけど」

かつてイマヌエル・カントは言った。人間はどうあがいても『物自体』に到達することはできない、というようなことを。

深見はもちろん、キツネの言っているようなことを信じているわけではなかった。でも、と深見は思う。信じない必要もないのではないだろうか。それを僕が信じるからといって、はたして僕の人生に何か悪い影響があるだろうか?つまり、それを信じてもなければ、信じていないわけでもなかった。深見はそれを、ただ認識するにとどめた。

いや、実際のところ、深見はずっとそうやって生きてきたのだ。何かを信じたこともないし、信じなかったこともない。深見にとって対象とはどこまでいっても、ただただ「対象」にすぎなかった。対象を認識することはできるが、それが「良い」のか「悪い」のか、深見にはわからなかった。

自分には、人間として生きるために必要な何かが欠落しているのだろう。深見はずっとそう考えて生きてきた。簡単にいうと、はっきりとした『自分の意見』というものを持ったことがないのだ。そして、『自分の意見』のようなものを胸を張って主張する人間に対して懐疑的でもあった。「本当に、本当にそれは自分の意見かい?」と。

深見はたくさん本を読んだ。たくさん映画も見た。今でもそうだ。でも深見にとって、本はただ本であり、映画はただただ映画だった。深見にとって面白い映画は存在せず、つまらない本というのも存在しなかった。それらは、ただそれらとして深見に認識されるだけだ。もちろん深見にも感情はある。本を読んで涙を流すこともあれば、映画を観て笑ったりもする。しかし、そういった体験は深見にとって意味を持たなかった。「それ」は「それ」でしかないのだから。
深見はそうやって生きてきた。

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