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#04 盛り上がりに欠けるヨーロッパリーグ、そしてキントレア

 
おおよそ700年もの間、人類が、地球が、どのような道を歩んだのか深見には想像できなかった。できるわけがない。彼はただのしがない有料トイレの経営者なのだ。

そこで、過去を振り返ってみよう。

2020年現在から700年前といえば、もちろんインターネットなどというものはその片鱗すら存在しない。電話もない。コンクリートもない。スニーカーもない、サッカーもない。つまり今の我々からすると、何もないと言っても差し支えない。

14世紀はペストという病気が主にユーラシア大陸で大流行し、世界で8500万人が死んだ。8500万人?ほぼ今の日本人口だ。日本では鎌倉幕府が滅んだ。

重要なのは、14世紀に起こったことなど、今の我々に全くと言っていいほど関係がないということだ。そして我々が「歴史」と呼ばれるものを振り返る時の最終着地点は、どれだけそれが実際にあったことだと想像しようとしても、何一つピンとこないということだ。これはつまり「嘘」とか「作り話」とかと同レベルの物事なのだ。Wikipediaの「14世紀」のページを見ながら深見はそう思った。

つまり、今の我々の生活なんかは、2791年においてなんの意味もなさない、一部のマニアックな学者の研究対象でしかないのだろう。

潔癖症を自称するキツネが、なぜ深見の部屋に泊まり続けることができたのかはわからない。

「清潔さとは信用なのよ」とキツネは言った。
「僕は君の信用をどうやって得たんだろう」
「そんなこと考えてどうするのよ」

キツネはずっとテレビを見ていた。もちろん2791年にテレビなどというものは存在しない。あるとしても、一部のマニアックな学者の部屋だけだ。でもキツネの興味を引いているのは、テレビという物体そのものなのか、そこに映し出されている内容の方なのかはわからなかった。

ニュースでは大きな船が映し出されていた。とても大きな船だ。そしてその船には耳を疑うような名前がついていた。『ダイヤモンド・プリンセス号』。でも特にその名前のヘンテコさ加減が話題にされている訳ではないようだった。どうやら船内で、新型コロナウイルスなるものの集団感染が起こったようだ。

「君は、これからどうなっていくのか全部わかってるの?」と深見はキツネに聞いた。キツネはマルボロをふかした。メンソールの香りが部屋に漂う。
「わかってるわよ」
「どうなっていくんだろう」
「そんなこと考えてどうするのよ」
 その通りだ。

ダイヤモンド・プリンセス号はアメリカに本拠地があるカーニバルコーポレーションの傘下、プリンセスクルーズ社が運航している大型クルーズ船である。客室総数は1337室。そのうち72%の960室は、窓が外に面している部屋いわゆる「オーシャンビュー」であり、56%の748室には専用バルコニーをそなえ、バリアフリーに配慮した客室が29室ある。24時間営業のものも含め、7つのレストランがあり、カジノや劇場、ジムなども併設されている。2014年に日本マーケット向けに大規模なリノベーションを行い、展望浴場や寿司バーなどが新設されたということだ。船の全長は290mある。

ダイヤモンド・プリンセス号は1月20日に横浜を出港し、香港やベトナム、台湾や沖縄をまわって、2月4日午前に横浜に帰港する予定だったということだ。

しかし2月1日、香港で下船した乗客から新型コロナウイルスの感染が確認された。船は2月3日夜には横浜港に到着したが、着岸せずに停泊。日本政府が検疫を行なった。

2月5日、乗客の10人に感染が確認され、それ以降乗客全員を自室待機させる隔離措置を開始した。しかし、検査結果が発表されるたびに、感染者は増加し、船員を含め全員が下船した3月1日までに、確認された感染者は706人になった。

運営会社のプリンセス・クルーズは全乗客の旅行代金を払い戻し、無料にすると発表した。

長い間テレビはこのニュースで持ちきりだった。深見は普段、ほとんどテレビを見ないが、キツネと暮らすようになってからというもの、家ではずっとテレビがついている。

テレビではアナウンサーと専門家なる者が、感染者を下船させる時期について議論していた。専門家は毎日同じ顔であり、毎日同じことを言っていた。

正直、深見はうんざりしていた。反吐が出るような名前の船で何が起きていようと、僕には何の関係もない。14世紀に起こったことと同じように。

「サッカーが見たいんだ」と深見は言った。「見逃している試合がたくさんある」これは嘘だ。本当は全部見ている。でも一度見た試合を見るほうが、大きな船をみるよりはマシだった。

でもキツネは無視した。いつものように、まるで完全に聴覚を失ったかのように。こういう時は、違うことを質問してみる。
「2971年には、サッカーはあるのかな?」
キツネはテレビをまっすぐ見ながら、言った。
「ないわよ」
深見はショックだった。
「嘘だろ。何で?」
「何でって、そんなことを私に聞かないでよ」

深見は事務所に向かった。別に、キツネの味気ない返事に辟易したわけではない。深見はキツネに質問するのが好きだったし、全ての質問を突っぱねられるわけではなかった。

例えば「君の好きな食べ物は?」
「焼きキントレア」

これはナスの進化系で、水分と栄養価が五倍ほどになった野菜の一種だそうだ。皮の色はオレンジ色、中身は今のナスと変わらないらしい。

「揚げキントレアもいいわね」

深見はよく、キツネがちゃんとした返事をしてくれるような質問を考えた。おそらくキツネは全ての質問に答えることができるのだろう。でもあえてそれをやらないのだ。僕に正しい質問をさせるために。そして、僕にはそれができるとキツネは思っているんだ。深見は事務所へ向かう道中で、そう結論づけた。

何が正しい質問なんだろう?

事務所では、サガンがちょうど、彼の親友に冷凍コオロギを与えているところだった。毒蜘蛛は全てをわかっているかのようにそれを待ち構えていた。

「よう、どうだ?可愛子ちゃんとの生活は」とサガンはニヤニヤしながら言った。
「別に、どうってことない」と言って、深見は自分の椅子に腰掛け、セブンスターに火をつけた。「サッカーが見たいんだ」
「可愛子ちゃんは見せてくれないのかよ」
「まあね」
サガンはテレビのチャンネルを衛星放送に合わせ、サッカー中継を探した。
「中継はやってないな」
「何でもいいよ。とにかくサッカーが見たいんだ」

サガンは、すでに終了したUEFAチャンピオンズリーグの一次予選のハイライト番組を見せてくれた。順当に強いチームが勝ち上がっていたが、インテルはあと一歩のところでトーナメントには行けなかった。彼らはこの後、ヨーロッパリーグで戦わないといけない。あのいまいち盛り上がりに欠けるヨーロッパリーグで。

深見はもちろん、キツネに関する多くの興味深い事柄については誰にも言わなかった。サガンにも言わなかった。キツネから口止めされているわけではないが、こういうことは、他人に言っても意味のないことにおける最上級なのだ。特に相手がサガンという男の場合は。

「言ったほうがいいのか、言わないほうがいいのか分からないことがあるとき、お前はどうする?」とサガンはアメリカンスピリッツを吸いながら言った。
「さあ」深見はチャンピオンズリーグ一次予選のハイライトに集中していた。サッカーはやはりこの世で一番面白い。ただ映像は全て見たことがあるものだった。

「昨日お前の可愛子ちゃんを見たぜ」サガンはスマートフォンを見ながら言った。
「どこで?」深見はテレビから目を離した。

サガンはスマートフォンの画面を深見に見せた。その写真にはキツネと、並んで歩く背の高い男が映っていた。


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