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彼は—この話の主人公は—、彼自身が何かしらの窮地に立たされたとき—彼自身を支持・擁護・矯正するものを本能的に欲する状況に立たされたとき—、身の回りにあるとりとめのないものを、彼にとって都合のよいポジティブな要素に、つまり「味方」に変換するという技術において、なかなか優れていた。

つまり、こういうことがあった。

朝4時半に起きて一本タバコを吸い、水圧の弱いシャワーを浴びて、昨日買っておいた甘いパンを食べながら、駅へ向かう。つい先ほど綺麗にした体は、早歩きのせいですでに粘着物となり、起床の遅さを悔やみ、昨夜のYouTubeの面白さを憎み、やりたくもない仕事しかできない自分を責める。

早朝の電車は、まだ昨夜の余韻の抜けない重い体を前へ前へと進ませる。過去と未来が入り混じり、なんとも言えぬ欠落感で埋め尽くされた早朝の電車の中で、ひとときの休息を認める。デリカシーのない冷風が、彼をTシャツごと締め上げるが、それを快感に思わずにはいられない。そしてふと、何か大きなものに生かされているな、と思う。そんな毎日。

その日彼は日雇い労働者として、郊外の大きな競技場でのイベント会場を設営する仕事にあたっていた。当時の彼は高校を出て、あてもなく東京に出てきたばかりで貯金もなかったので、「誇り」を失わず働くことのできる職が見つかるまで、日雇いの仕事で食いつないでくしかなかった。ご存知の通り日雇い労働の現場というのは、知識、分別、思慮を持つ人間が、それらを持たぬ連中の下で、こき使われていることのが常だ。跳梁跋扈の世界と言っても過言ではない。

当然その日の現場も、今までの現場と同じような中年の男(その現場を仕切っていると思われる男)が、同じような話を、同じような服装で、同じような黄色い歯から発し、その話を同じような空洞の目を持つ者たちが聞いているのだった。

知的好奇心というものを完膚なきまでに叩き潰すような、下水道で流れずに残っている名も無い固形物に引っかかっているゴミのような話は、いうまでもなく何度も彼をイラつかせた。仮にそのような中年の男のことを、ここでは総称して「マーダラー」と呼んでみよう。

おおよその現場において、マーダラーの「お気に入り」と、マーダラーに「目をつけられる者」という二種類の人間が出来上がってしまう。どのような基準でこの二種類が選別されているのか、未だに彼にはわからないのだが、どうやらこの世界には未だに原因の解明されていない結果が存在しているようだ。結果の解明されていない原因が存在するのと同じように。

御察しの通り、その日彼はマーダラーに目をつけられた。マーダラーは彼が何かをするたびに、薄汚い笑みを浮かべながら彼の無能さを嘆き、吐き捨てた。灼熱といっても差し支えないであろう太陽光を浴びながら、二時間も三時間もひたすらテントを折りたたんでいる時も、膝まで登ってきた蟻を見ながらカップラーメンをすすっている時も、マーダラーは彼の無能さを吐き捨てる努力をやめることはなかった。

仕事が終わり、22時の電車に乗った。家に帰り、テレビをつけ、洗濯機を回す。冷房をつけ、目をテレビの画面に向けながら、彼は今日という一日を反芻する。体がサラサラしてきたので布団に入り電気を消す。目はテレビを向いているが、彼が見ているのは、何事もなく進む全世界の背中だ。彼だけが世界から忘れ去られ、彼の内側には黒と紫の巨大な混沌が渦巻いている。いまや彼の中には、その巨大な竜巻しか存在せず、たとえ何かが入ったとしてもすぐにその渦にのみ込まれる。全ての効力は失われ、万物が黒と紫の物質と化すのだ。

彼にはもはや何も残されていなかった。身の回りにある、「味方」になり得るものを探すその目にさえも、今やその巨大な渦しか映らない。体は重く、なぜ今自分がここにいるのかがわからなくなっていた。これまでの人生で経験したこと、会話、行動が全て、誰か他の人のものに感じられ、自分が自分であることを疑い始めた。
誕生から現在までの時間が全て空洞になった。蝉の抜け殻のように、中身はどこか遠くの世界に飛んで行ったのだろう。

彼にはどうすることもできなかった。その渦はもはや彼の中にありながら、もはや彼のものではなくなっていた。ただその今にも張り裂けそうな痛み、苦しみとともに、その渦が去ってくれることを待つしかなかった。

しかし、そこで彼はあることに気づいた。何かがかろうじて巨大な渦を制御している。何だろう。彼は手探りでその糸を探しあて、たぐり寄せた。そしてその正体を知った。

「呼吸」だった。彼は呼吸をしていたのだ。彼はようやく味方をみつけた。「呼吸」という味方を。「生きる」ことの初歩を。彼は呼吸を味方につけた。一番深いところまで吸い込み、一番浅いところまで吐き出した。吸うと同時に渦の流れはしだいに弱まり、吐けば黒と紫はどんどん薄れていく。やがて姿をあらわす。彼は彼を認識する。彼はそこにいた。彼は彼でしかなく、世界は世界でしかなかった。

洗濯物を干し、テレビを消し、お風呂に入ってすぐに眠った。翌朝4時に起きて、もう一度シャワーを浴びた。パンを食べながら駅へ向かう。早朝の電車はやはり彼の味方だった。

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