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#02 全ては想定内の出来事だった

 
キツネのことを話す前に、簡単にサガンのことを話しておこう。

 「G.S.Toilet」というのが、そのトイレ会社の社名だった。
そして「G.S.Toilet」が展開する有料トイレの店舗名もまた、「G.S.Toilet」だった。「G.S.Toilet赤坂店」「G.S.Toilet五反田店」といった具合だ。

深見が代表取締役社長をつとめ、あとは社員が一人、サガンヨジロウという男。本名である。だが当時はまだ法人化されておらず、深見が個人事業として営業していたのだが。
 

サガンの紹介。

「目 与次郎」と書くが、わかりにくいのでカタカナでいかせてもらう。「G.S.Toilet」という社名もサガンが考えたものだ。Gには特に意味はなく、もちろんSにも意味はない。サガンにとって大事なのは音の響だけだった。深見は社名なんてどうでもよかった。

サガンは暗い過去をもつ男である。

彼は大学の四年間、ほとんどすべての時間をラーメン屋とカレー屋とお好み焼き屋で過ごした。そして健康な彼は横浜家系ラーメンと激辛ビーフカレーと豚バラのお好み焼きを四年間見事に食べ続けた。もちろん賄いとしてだ。

彼は世界を一周してみたかったのだ。彼には自分は生まれながらの冒険家だという自負があった。そのために四年間必死で働いた。

卒業式の日、彼は力士3人分くらいの荷物を背負い会場に現れ、式がおわるとその足で成田空港へ向かった。

サガンは「俺に何があったとしても悲しむなよ。俺は幸せだ。俺が死んでも世界は回るんだからな。そのうち会えるさ」と、言った。その場にいた人間は誰しもが、これから彼の本当の人生が始まるんだな、と本気で思った。サガンはこれ以上ないほどの前傾姿勢を取っていた。その姿は、太陽の光を100パーセント跳ね返すレフ板のように眩しかった。

そして1年後帰って来たサガンは言った。
「全ては想像通りであり、全ては想定内の出来事だった」と。
そのあとサガンは、G.S.Toiletのたった一人の社員になった。


深見はサガンにキツネを紹介した。1月23日のことだ。

「・・いえ、有料です。無料ではありません、有料のトイレです。ええ・・はい・・」ガチャ。
深見が事務所に戻ると、サガンはちょうど電話を切るところだった。

「コーヒーでもどうだ」と深見は聞いた。
「ぜひ」とサガン。
電話を切ったあと、サガンはよくこう言う。
「世の中には二種類の人間がいる。話が通じる人間と、絶対に通じない人間だ」
もちろん今回も言った。

「こちらキツネさん」と深見はコーヒーを淹れながら言った。
「キツネさん?」とサガンは親しみを込めて笑いかけた。でもキツネには聞こえていないようだった。彼女は事務所の真ん中に置かれた、大きなガラスケースの中身を見ていた。

中身はサガンの相棒だった。

サガンが冒険から得たものは0ではなく、少なくとも1だったのだ。
彼がそれを見つけたのは、期待外れの世界一周旅行から自分の家に帰り、大きなキャリーケースを開けた時である。

サガンはその大きな毒蜘蛛と目があった。そして両者の間には一瞬のうちに、深い精神的な繋がりが生まれた。サガンは家よりも事務所にいることの方が多いと言って、勝手に事務所でその毒蜘蛛を飼い始めた。

「サガンヨジロウと言います。本名です、よろしく」とサガンは右手を差し出した。
「彼女は潔癖症なんだ」と深見は言った。
「よろしくお願いします」とキツネは少し頭を下げた。サガンは行き場を失った手を引っ込めた。

キツネはその毒蜘蛛を、ガラス越しにじっと見つめていた。毒蜘蛛も、キツネをじっと見つめていた。
「名前はあるの?」とキツネは聞いた。
サガンはその相棒に、あえて名前をつけなかった。
「なんでもかんでも名前をつけるってことが、人間の愚かな性質の根本だ」とサガンはコーヒーを飲みながら言った。「そう思わないか?」
深見もキツネも、それには何も答えなかった。

テレビをつけて、ニュースを見た。
本日1月23日、中国の武漢という都市が封鎖されたとのこと。午前10時をもって市内全域の交通機関、同市を出発する航空便や鉄道の運行が停止された。武漢市政府は駅や高速道路を閉鎖し、一千万人を超える市民に移動制限をかける異例の措置をとった。

市政府の幹部会議では「全面的な戦時状態に入っている」とし、市民に「特殊な事情がない限り、武漢を離れてはならない」という指示を出した。

スーパーなど、日用品を販売する店舗以外は基本的に営業を停止し、封鎖の前日まではいわゆる買いだめのための客が殺到していたとのこと。スーパーの入り口では客ひとりひとりに体温検査が行われ、鉄道駅周辺などでは防護服を着た得体の知れない人間たちが、大規模な消毒作業をしていた。
深見は、まるで月面を開発するNASAの宇宙飛行士みたいだな、と思った。

深見とサガンはコンビニで買っておいた弁当を食べながら、テレビのニュースを見ていた。

サガンは「俺はここに行ったことあるぜ」と言った。「何もなかったけどな」

各国が武漢にチャーター機を出し、取り残された国民を自国に連れて帰るそうだ。まるで戦争みたいだな、と深見は思った。

深見には昔から、漠然とした不安があった。それは戦争についての不安だ。もちろん深見は戦争というものを知らない。深見にとって戦争とは具体的な質感を持たない、一つの事実にすぎない。それは、紙に書かれた、一つの文字に似ている。ただの記号だ。

だからこその不安なのだ。と深見は思う。戦争を知らないからこそ、深見は戦争というものが心底怖かった。だって、急に空から爆弾が降ってくるんだ。大量の爆弾。どうする?どうもできない。深見にはどうすることもできない。ただ受け入れるしかない。

キツネはカップラーメンの蓋を剥がした。全部剥がした。
「どうしたらいいの?」とキツネは言った。カップの外側の表記を見ていた。
「何が?」と深見は聞いた。
「初めてなの。こういうの」
「嘘だろ」とサガンが言った。
深見はカップラーメンの作り方の手順をキツネに教えた。
「3分待つんだ」
「3分ね」とキツネは時計を見た。
「そんなに正確じゃなくてもいい」とサガンが言った。
でもキツネには聞こえていないようだった。


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