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柳に逢うては柳を

「民藝はよく分からん!」と匙を投げるのは簡単だが、投げ出すことを許せるほど掘り下げてみた訳でもない。第一それでは進歩がない。

ところで「匙を投げる」の匙は薬匙のことであり、カレースプーンのことでは無いのだが、デザインと民藝を結ぶ匙は多分これだろうからヨシ。

さて、無印良品と民藝を繋ぐヒントは深澤直人氏の哲学にあるのでは、と思い氏の本をポチったことは前回書いた。実はその際に高木崇雄氏の『わかりやすい民藝』という本も併せて購入した。高木氏がどういう方なのかは全く存じ上げなかったが、読後に著者経歴を見ると日本民藝協会の常任理事との事。もし読前にそれを知っていたらauthorとauthorityを切り離すのに余計な労を割いただろうから、その点は幸運だった。今回は両著を通して変わった、あるいは変わらなかった私の民藝感について記すことにする。

さて、今日時点で私が思う民藝とは「これ」だ。

画像引用:久住昌之/谷口ジロー『孤独のグルメ』

補足説明。これは洋食屋で出てきた「ふつう」のハンバーグランチを前にしての感想である。ハンバーグにはケチャップソースがかかり、目玉焼きとポテトフライが付け合わせの、ご飯と味噌汁がセットのハンバーグランチである。奇を衒わない、特別ではない、余計な事をしていない、イメージ通りの、つまり「ふつう」であることに対する賛辞である。こういう「ふつう」が民藝に通ずるのだと私は考えている。

「ふつう」という言葉のニュアンスは広い。例えば「ふつうのハンバーグ」は「平凡なハンバーグ」や「ありふれたハンバーグ」と言い換えることができる。もしかしたら、チーズやパイン等のトッピングがない「標準的なハンバーグ」という意味かもしれない。これに対して「私はその店に行くとふつうハンバーグを食べる」という文章においては「大抵」ないし「普段」あたりの意味で使われており、「平凡な」とか「ありふれた」と言い換えることはできない。英語にすればより分かりやすい。「ふつう」を意味する英語はnormal(正常な)だけではなく、ordiary(平凡な)、common(ありふれた)、regular(標準的)、usual(大抵、普段)などはいずれも「ふつう」と訳すことができる。

柳も民藝を英語で何と訳すか悩んだらしい。下手物という意味ではcommon-place utensils(普通の、ありふれた日用品)やordinary articles(普通の、平凡な物品)であり、民衆を強調するならfolk art(民族の芸術)やpeasant art(百姓の芸術)、people's art/craft(人民の芸術/工芸)である。民藝運動の初期、あるいは現在では一般にfolk artと訳されるが、normal artと訳していた時期もあるのだという。高木氏曰く「柳が最も先鋭化していたのはその頃」だそうだ。normalの対義語はabnormal、この「ふつう」はある基準に対する「正常」か「異常」かを判断するものである。柳は板谷波山(帝室技芸員、文化勲章受賞者)や清水六兵衛(文化勲章受賞者)の作品を痛烈に批判しているが、それこそが民藝(normal art)の真逆、abnormal artだと柳はみなしたのだろう。

高木氏の説によると、柳が目指したのは「お上(公権力)が定める美の基準、美術(ファインアート)を工芸(クラフト)の上に置くヒエラルキーの解体」であり、民藝とは官に対する民としての工芸であるという。従って、柳の言う工芸とは単なる陶磁器や漆器に留まらず絵画や彫刻、格闘技の型やバスのアナウンスをも含む「たくみのわざ」としての工芸である。

歴史を紐解けば、明治以前の日本において絵画や彫刻は工芸の一分野であった。しかし明治に入り、欧米を手本とする政府が、欧米と同様に絵画と彫刻を「美術」として工芸から分離し、工芸の上に置いた。そこには「日本は欧米と同等の文明国である」とアピールするためという切実な理由があっての事だったのだが、芸術家ではなく職人と見なされて下に置かれた陶芸家や漆芸家からすると堪ったもんじゃない。彼らは工芸は美術に劣るものではないと反論した。しかし現在の日展の前身である文展(文部省美術展覧会)は、設立から20年もの間工芸品の出展を認めていなかった。1927年に工芸部門が新設されると、波山や六兵衛らはそこで出展を重ね名を高めていく。美術と工芸のヒエラルキーを受け入れ、その中で高みを目指す彼らと、ヒエラルキーそのものの存在を認めず解体せんと試みる柳。互いに反りが合うはずもない。

そんな柳だが、晩年は「民藝という名称は仮称にすぎないのだから固執してはいけない」というような事を言っていたそうで、高木氏の本には『改めて民藝について』と題した文章の冒頭が引用されていた。青空文庫に全文が公開されているので、以下にリンクを貼る。

至極まともな事を言っているではないか。自分が美しいと思った物の共通点が民衆的な性質であったから民藝と名付けたにすぎない。民藝という言葉を形式化してはいけない。民藝趣味という言葉は矛盾であり、言葉に囚われては民藝は見えなくなる。柳のこれらの言葉は、民藝とは手仕事であるとか、民藝とは無名の職人が作った物とか、そういう教条的な言葉に比べて余程納得できる。私はこれまで民藝とは没個性化を進めるとんでもない思想だと解釈していたが、とんでもない誤解であった。しかし誤解と反発があったからこそ、民藝の本質が自由であるのがよく分かる。

「平凡を離れた非凡など、大した内容とはなるまい」と柳は言う。高木氏の本では『茶道を想う』と題した柳の文章やウィリアム・ブレイクの“Auguries of Innocence”という詩を引用し、民藝における平凡と非凡の関係を考察している。

焼き物の個展などに行くと、奇を衒った形や釉薬や絵付けの皿やぐい呑みばかりを目にする。焼き物に関心を持ち始めた当初はそれらを面白く思い、時には幾つか買って使ったりもした。しかしやがてそれら自身の奇抜さに飽き、奇抜故の取り合わせの不調和も鼻につくようになり、大半は手放してしまった。柳が言うように、非凡の中に非凡を見るのは簡単である。一方、平凡の中の非凡は中々飽きることがない。食器であれば取り合わせもしやすいのも嬉しい。

私はしばしばレトルトカレーを買う。無印良品のも買うし、1パック500円とか800円とかする和牛のカレーや名店監修のカレーも買う。しかし10回に1回くらいはボンカレーを買う。そのボンカレーがしみじみと美味い。「こういうのでいいんだよ、こういうので」という感じがする。そのカレーを盛り付けるのは、無印良品のオーバルボウルである。

私はこう思う。権威に迎合することなく平凡の中に非凡を見る営みを、柳宗悦は仮に民藝と呼んだのではないか、と。


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