映画「まる」を見たけど、それでも僕は信じたい【エッセイ】
あらすじ
この映画はあらすじでも分かる通りかなり嘲笑的に描かれている。
アートを過剰に持ち上げ、心酔し、自分たちの都合のいいように利用する。
作者である沢田を置いてけぼりにして。
確かにアートにはこうした側面もあるだろう
言葉ではないため、さまざまな解釈が生まれる。それ自体は当然のことだ。
むしろそれこそアートの醍醐味である。
しかしだ。
そんなのあんまりではないだろうか?
アートはどうやっても作者の想いや考えが投影される。
その時々の自分の在り方が詰まっている。
それにも関わらず、理解されるどころか拡大解釈され都合のいいように扱われてしまうのはあまりにも悲しい。
だから自分は沢田が「○」に込めた想いが伝わっていると信じたい。
今作の原因となった最初の「○」。
これはあらすじの通り部屋にいた蟻よって導かれ描かれたものだ。実際のところそれしかない。つまり沢田の想いなんかは込められていないわけだ。
だが考えて欲しい。
何も込められていない、が込められていたとしたらどうだろうか?
上でも話したが、アートはどうしても作者の現在の在り方が詰まっている。
ではこの時の沢田はどうだったのか。
アーティストとして成功できず、アシスタントとして使い捨てられ、怪我までした。
それでも憤りを感じることなく諦めの境地にいる。
その沢田が蟻を囲む過程で生まれた「○」。
何も求めず、期待せず、欲もない。まさに無我。
それは円相が意味する状態そのものではないだろうか?
つまり、沢田の意図したことではないが込められた想い自体は多くに人に伝わったと言えるのではないだろうか。
次の「○」は多くの人に求められた状態で描いた「○」。
上記を踏まえると、この時の沢田には欲が出てしまっていた。
お金が欲しい。認められたい。評価されたい。
もちろんこれらの欲はあって当然のものだ。しかし、円相とは相性が悪かった。そのため沢田は「○」を描けなくなってしまった。
では、どのようにして「○」に辿り着いたのか。
描いた。描いて描いて描きまくった。
そう、まさに無我夢中だ。
この時の「○」に込められた想いは欲を捨て去るになるだろう。
それが通じた影響か、欲深い活動家によってメチャクチャにされてしまった。
では最後の「○」はどんな想いが込められてか?
紆余曲折があり、沢田は「○」以外の絵を描いていた。それは彼の中で決心がついており「○」を手放す勇気を持てていたからである。
しかし、世界が沢田に求めるのはやはり「○」なのだ。
だから沢田は「○」を描いてやった。今まで一番の無我で。そして出来上がった完璧な「○」の真ん中を思いっきりぶん殴って風穴を開けてやった。
自分はこれを見て思ってしまった。「あぁ、これこそ完璧な円相だ」と。
普通に生きていれば創作をする機会なんて起こり得ないと思う。何か強制された状態以外でない限り。
ではなぜ人は創作するのか?
お金が欲しいからか?認められたいからか?評価されたいからか?
どれも違う。
ではなぜ創作するのか?
伝えたいことがあるからだと思う。
自分を知って欲しい。自分に気づいて欲しい。自分を見て欲しい。
そう意味で言うと、創作は作者の叫びだと考えることもできる。
沢田の叫びが届いていたことを僕は願いたい。
映画館に行くまでの一波乱