【トークイベント】『カフェから時代は創られる』から1年 〜今だからこそ、カフェの役割を考える〜 現地参加メモ
緊急事態宣言があけて初の週末、国分寺にあるカフェ「胡桃堂珈琲店」で開催されたイベントに参加してきました。
この企画は、約1年前の昨年8月30日に影山知明さんの「クルミド出版」から発刊された「カフェから時代は創られる」について、著者の飯田美樹さんと影山さんが語らう、という企画でした。
この本が「場作り」やコミュニティの文脈で学びが多かったこと、そして何より僕自身が2000年前後のカフェブーム(しかし、このカフェ達は飯田さんのおっしゃるカフェとは、違いますが…)の頃からのカフェ好きでもあったこと、そしてから、緊急事態宣言も開けたことを受け、参加してきました。
ちなみに主催の影山知明さんこと「かげ」は、大学時代のサークルの同期。実家が近かったこともあり、学生時代はファミレスでコーヒーを飲み明かしたこともありました。
影山さんの問いに飯田さんが答える形で進んだ対談が非常に面白く、スマホのメモが止まらなかったので、速記録を共有させていただきます(なお本編は配信もされています)。あくまで速記なので、その点ご容赦ください。
以下、グレーの箇所が影山さんの問い、それに続く記載が飯田さんの答えです。
発刊から1年を経て思うこと
当初の版は2008年に発刊されたこの本を、20年8月30日に改めて発売してから、3000部売れた。13年経っても意味がある内容になっている。時代と本がマッチしてきたと思うが、著者として思うことは?
2008年当時は、本に書かれている「カフェ」がわからない、と言われたこともあった。本で採り上げたパリのカフェは、お茶しにいく場所だけではない。人同士が出会う「可能性を秘めた場所」である。
20年8月の改めての発刊は、昨今の状況もあり「最悪のタイミングで出た」と言われた。しかし、この状況のおかげで「場の重要性を感じた」「読むべき本を出していただいた」とも言われている。
場の重要性とは?人が集まることの意味とは?リアルに人が集まれないと、何が起こるのか?
昨年の夏頃といえば在宅ワークが中心の時期で、生産性が上がると話題になった。しかし、イノベーションが起こりにくい、という声も上がっていた。
そのため、会社によってはワクチンを打って戻ってきて欲しい、というところもあるようだ。
とあるゲーム会社では、社員が会社にいた時には新製品が開発されたが、今は遅れているという話も聞いた。生身の人間同士は、休憩所の出会いなどがヒントになることもある。しかし、オンラインでは基本的にそうした時間がない。
一見、無駄に見えたことや、効率を追いかけつつ、効率的でないことが大事。新著の会議を胡桃堂珈琲店で行ってきたが、自分だけ家からオンラインで参加した時は、全然ダメだった。リアルだと、会議が例えば15時に終わった後、影山さんがいなくなってからの会話が16時や16時半まで盛り上がったこともあった。オンラインでは、そうれがない。
去年の今頃は、なぜ会わなきゃいけないとか、通勤しなくなっててよかった、という風潮だったが変わってきた?
NewYork Timsなどを読むと、このご時世になる前から完全にオンラインだったような人ほど、生身が大事だと言い出している記事もあった。
よく、ファーストプレイス、セカンドプレイス、サードプレイスという表現をする。在宅ワークでは、この3つが重なっている。それでは、心身の健康を保つことは難しいのだろうか。
難しいと思う。庭でカフェなどをやってきたが、オンラインやりすぎて厳しかった。そんな中で銀座に行ったら、心が動く音がした。人がいる場所にく意味を感じた。その後、主宰しているコミュニティ「ワールドニュースカフェ」仲間と会ったら、とても元気になった。
生身の人間の暖かさは、オンラインでは伝わらないと思う。オンラインで上手くいく人は、特殊な技能を持ち合わせた人かもしれないと思う。
ファーストプレイス、セカンドプレイス、サードプレイスが重なると悪影響
ファーストとセカンド、そしてサードがわかれていて、3本足があることに意味があるのだろうか。
家を出て、カフェで仕事すると違う。家であれば、お茶代はかからない。しかし、カフェに行くことによる物理的な変化がある。近所の喫茶店に行くだけで(家ではないので)いる人が違う。周りの会話などが自然と入ってきて、ゲットできる情報が違う。
さらに、あの人がまた来て頑張っている、よし自分も頑張ろうと言ったこともある。カフェに行くことには、無駄に思える、明文化されていないものがある。効率を追求しすぎると破綻しかねない。
生産性で測れない彩りや、イノベーションの源泉があるのだろう。しかしそれは、カフェでなければいけないのか?サードプレイスの可能性とは?
日本のカフェは、友達といっておいしいケーキセットをいただくところ、というイメージ。しかし、フランスのカフェは違う。カフェの本質は「人が出会って口を開く場」。飲み物や食べ物はなんでもいい。しかし、日本はそっち(飲み物や食べ物)の質が大事。しかし、カフェの「本質」はと考えると、違う気がする。
確かに日本のカフェはメニューがしっかりしていたり、コーヒーの焙煎が一流だったり、店によっては話していると怒られることもあろう。この日本とフランスのカフェの違いは、文化的背景の違いによるもの?日本でも銭湯や赤ちょうちんなどは、このご時世になる前はパリのカフェのような機能があったと言われていたが、どうだろうか。
「茶道」の影響かもしれない。「コーヒー道」などの「俺のこだわり」をという感じ。しかし、それをお客さんは嫌っていることもある。
日本では、コミュニティカフェはサードプレイスに違い。必要性があって、人生かけてやっている人が多い。しかし、日本のカフェがカフェとして機能していれば(コミュニティカフェは)いらない。日本は、飲食店が多いが、パリのカフェのように機能しているところは、少ない。
読書会を開催
「カフェで時代は創られる」の読書会を全7回開催した。
一番感じたことは、100年前のパリと2021年の現実に大きな差があること。
打ちひしがれた。キーワードは「躍動感」だった。当時は、野心を持ってカフェに人が来ていた。そこから人が育つような闊達な状況が今のカフェにあるか??この差はなんだ??という思い。
これには2つ理由があり、1つはパリと東京という差、2つ目は100年前と今という差。憧れ、ワクワク、作っていきたい、引き上げてもらえる、という感覚を感じたが、現実は違う!という冷や水も浴びせられている。これについては、どう思うか。
2008年の初版発刊時には、それを言われた。本を閉じると、ここに書かれているようなカフェは無い、という感覚。しかし、今やっているワールドニュースを読む会では、議論ができ、社会が変わる、カフェのような感じがする。中には人生が変わって、南スーダンに行った人もいる。こうした活動から、諦めは無くなった。
ワールドニュースカフェという英語読解、英字新聞を読む場は、英語力向上や、状況把握につながってる感じがする。闊達な場になっている理由は何か?
開催頻度が高いこと。少なくとも週3回は開催している。
毎回、頭に冷や汗をかく。集まった人は、新聞への意見を交わす間に「参加した感」が高まり、そこで仲良くなる。結束感が生まれる。参加者は、東京、山口、ミャンマーなどから。
みんな本気で話すので、参加当初は発言しにくくても、だんだん「意見を言わなきゃ」という感じになり、意見を言えなかった人が話すようになる。あつい!
月に12回開催という「頻度」と「密度」が大事なのか?
これだけやると、関係性ができてくる。月に1回はダメ、最低月に2回
3回は、と思ってやってきた。
ぶんじ寮で、類することが起きている。20人から30人で、夜に食堂などで話し込んでいる。メンバーは同じ寮にいる人で、結論ない対話を続けるうちに、内容が深まり、何かしたい!という欲求が高まったり、出てきたりする。生活の場での対話は大事だ。しかし飲食店の店頭で、それはなかなかない。
アツい人が必要。普段言えないことを、ここなら言えるという状況が大事。
ワールドニュースカフェでは、去年のある時期は米国大統領選で、頭がそれ一色なんて人達もいて、大統領選オフ会などが開催されるほどだった。日常会話では出てこない、という人もいた。
仕事の場ではそれに関する話題に集中し、趣味や興味などの仕事以外のことに関心を持てない。そうしたことに関心を持つ「きっかけ」になっているということか。また、今は自分のこと以外に関心を持たない人や欲求がない人が増えている気がするが、どうか。
子供たちは冷めている。先が見えないからだろう。しかし、アフリカやミャンマーの子供達は違う。今の日本は先進国として豊か。自分が語学を学んだ時期は、カセットテープの時代。ガイドブックを見て、海外に憧れていた。しかし今は、YouTubeで知った感じになれ、行かなくていい、となる。欲がない。冷めていることがかっこいいという雰囲気。
幼稚園や小学校低学年は違う。しかし、高学年から中学で変わる。他者しか意識していないようになる。他と違う=普通でないことを怖がる。普通でなければならない強迫観念に駆られている。冷めていることがかっこいいと思っている人が多い。
しかし、ワールドニュースカフェでは触発されて、あつくなる。もっとやらねば、無駄にしてきた時間を取り戻さねば、と思うようになる。
自分もフランスに留学した際に、そうなった。パリ政治学院に留学したが、世界のエリートの卵と大違いさに驚愕した。世界で最下位となった。これは森鴎外、夏目漱石などのかつての文豪も同じ。太刀打ちできなかった。こうしたことを先に知っておくが大事。
お言葉だが、(留学し、世界のエリートと戦うような)面倒なことが、今の人たちは嫌なのでは?世界のトップと太刀打ちしなくても、生きていける。この1年がそれに拍車をかけた。人の欲求や関心が低くなっている。
しかし、同時に一人では生きていけず、誰かとの掛け合いの大切さや、他人に言われて自信が生まれるなどの「きっかけ」「刺激」が必要だとも思う。
他者との関わりがないと、自分を弱くしていく。人と関われなくてももやっていけると思う人に、人に関わらないと生きていけないと思わせないと、ますます「1億総引きこもり」になる。
「カフェ=人が出会って口を開く場」。かつてのカフェは革命家などの集う場だった。そこでは普通の社会では言えないことを言えた。そこから生まれるものが大事。カフェのその役割は変わらない。
そういう場が増えるには??
「場のデザイン」が大事。話のしやすいアフォーダンス。例えば、ワインやカウンター、(胡桃堂珈琲店のような)こういう場所など。静かだったら静かになるし、話しやすい雰囲気だったら入れてくれる。
自然と口を開きやすくするのは、日々営業しつつ、自然発生的に会話するのは難しい。いろんなアイディアを出す中で「旗を立てる」案を思いついた。
「声をかけてください」という旗だ、その他、1Fは練習場にする。自分としては半径一キロの国分寺で、人と人が出会って口を開く場が育ちやすくなってると思う。日本はわからないが、国分寺からは作られる。
今後の活動
オープンカフェから街は創られる。インフォーマル・パブリックが大事。
なぜ、今までなかったのか?日本にはいいパブリックがない。自分らしく生きられるようにしたい。
街が自動車中心だからか?生活や歩行者中心ではない。郊外の車社会では、日本も一億総引きこもり。反対はパブリックでアメリカ型社会、からの歴史的背景もあるか?
今後は、クルミド大学のセミナー、読書会、街の思想(なぜ今の街は生きづらいのか?)などでその辺りの探究を行う予定。いろんなことが難しい。なぜ社会がそうなったのか??こんな人がいていいのだ、という場が必要。
参加後記
「自分らしくいられる場」が少ない理由は何か…質疑応答で聞いてみました。飯田さんの答えば「インフォーマル・パブリック・ライフがないから」。
「インフォーマル・パブリック・ライフ」とは、場や空間によって生み出される、パブリック・プレイスでの、リラックスした時間のこと。こんな人がいていいんだ!とか、ありのままの自分でいていいんだ!という感覚が味わえる、寛容な場、ともおっしゃっていました。
東京は日本の他の街に比べて、そのような場所が多かったり、アクセスしやすいかもしれません。しかし、飯田さん曰く、日本全国がそういうわけではないので、その方法論を新著ではまとめられるとのこと。企画書を拝読しましたが、地方創生と孤独が社会問題化している今、発刊された暁には必読書になること間違いなし!な気がしました。
しかし、今日の話に出た「人は人と接する中で自分を理解し、新たなものを生み出す」という人のあり方は、変わらない気がしました。非常に素晴らしい時間でした。そして、カフェの本質は「人が出会って口を開く場」を、体感しました。飯田さん、かげ、ありがとうございました!
なお、配信はこちらからご覧になれます。よろしければ!