スポーツは結果が全てなのか?
開幕から一週間以上が経過した東京オリンピック。
テレビや新聞にはメダルを獲得した日本人選手たちの笑顔が並んでいる。
そこでアスリートに突き付けられるのは「メダルを獲得したか、しないか」「メダルの色は金か、それ以外か」であり、正に「結果が全て」である。
確かに、4年に1度という大舞台で、家族や仲間、国民の思いを背負いながら結果を残すアスリートの姿はスポーツ、オリンピックの一番の魅力かもしれない。
ただ、スポーツの持つ価値は本当にそれだけなのだろうか?
ここでは、①大相撲七月場所②J1第3節ガンバ大阪VS大分トリニータ③競泳男子200m個人メドレーという関連性の無い3つの競技からこの疑問について私見を書き綴ってみることにする。
①大相撲七月場所
七月場所は千秋楽まで横綱白鵬と大関照ノ富士が全勝で進み、千秋楽全勝対決を制した白鵬が優勝を決めた。この一番を振り返ると、内容は相撲なのか喧嘩なのか分からない激しいものであった。また、白鵬の肘打ちのようなカチ上げや土俵上でのガッツポーズは一部のファンから批判を浴び、物議を醸した。
ただ、私はこの取組を観て久々に鳥肌が立つような感動を覚えた。
それは、「強者と強者」がぶつかり合うというスポーツの普遍的な魅力を感じたからだ。仕切り前の激しい睨み合い、勝利への執念は正に「強き者同士の戦い」であった。
そして、それは「勝利」という「結果」の概念が作り上げたものなのである。
一方で白鵬と照ノ富士2人の残り14日間に焦点を当ててみると、別の感情が湧き上がってくる。それは、強者が勝つのは当たり前となり、当たり前は凡庸となり、弱者が強者を打ち負かすのを観客は求めるということだ。これは、また別の機会で詳しく言及したい。
②J1第3節ガンバ大阪VS大分トリニータ
コーナーキックのこぼれ球を大分の選手がゴールに押し込むと吹田スタジアムにはため息が漏れた。
関東圏在住のガンバファンである私は、部活の予定の合間を縫ってアウェイゲームへ足を運んだ。しかし、ガンバが強くても弱くても負けることが多く、いつしか現地観戦=負けという意識が私に刷り込まれていった。
さらに、ガンバはACL予選敗退から再開後のリーグ戦も2連敗というどん底の状態。
「今日も勝てないか」と思った。
ただ、そんな私とは違いゴール裏のガンバファンと選手たちは諦めていなかった。後半39分レアンドロ・ペレイラが強烈なボレーを突き刺し同点に追いつくと、スタジアム全体の雰囲気が一変する。
手拍子に後押しされた選手たちは整備されたビルドアップや綺麗な崩しは無いが、泥臭く前線にボールを送りこみ続ける。試合終了間際、パトリックの落としたボールを宇佐美が振り抜き、ゴールネットを揺らした。ゴールを決めた宇佐美がベンチに飛び込んでくる瞬間は、ピッチとスタンドが一体化した時間であった。
ガンバVS大分はリーグの下位クラブ同士の一戦、さらに同時刻にはオリンピック女子ソフトボールの決勝が行われていて、完全な「ウラ試合」だった。
しかし、吹田スタジアムやDAZNで観戦していたガンバファンや私にとっては心を動かされる試合となった。
決勝点を決めたのがガンバのアイコニック的存在である宇佐美だったというのも大きな要因だろう。宇佐美は今シーズン2得点と苦しんでいた。
決して強者とは言えないガンバの勝利に歓喜したのは、「結果」だけでなく苦しみの「過程」を「共有」していたからである。
③競泳男子200m個人メドレー
東京オリンピックで最も印象に残った表情を聞かれれば、200m個人メドレー決勝後の瀬戸大也の笑顔と即答する。様々な苦難を経験した彼の清々しい表情はそれくらい印象的だった。
2019年瀬戸は世界水泳で三冠を達成し、キャリアの絶頂を迎えていた。
残すはオリンピックでの金メダル、そんな中で1年延期が決まった。
オリンピックというゴールを目指して努力してきたにも関わらず、そのゴール自体が見えなくなった苦しさは計り知れない。
2020年9月には自身の女性問題もあり、世間からバッシングを浴びる。
瀬戸の印象は、品行方正な期待の星からだらしないスイマーへと変わった。
迎えたオリンピック開幕、瀬戸自身も「結果」を出すことで世間の評価を覆そうと思っていたに違いない。
しかし、ここでも瀬戸は苦境に陥る。得意の400m個人メドレーでまさかの予選敗退。さらに、200mバタフライも準決勝敗退となった。
残された200m個人メドレー、最後に瀬戸がどんな泳ぎを見せるのか、私は注目していた。
しかし、予選は16位での薄氷の通過、私は正直厳しいだろうと思った。
そんな中で、瀬戸は準決勝を全体3位で通過し、決勝進出を果たす。
ようやく辿り着いた決勝の舞台、瀬戸は今大会一番の泳ぎを披露した。
前半のバタフライ、背泳ぎで上位につけると得意の平泳ぎで更に加速する。
ラストはクロール、後続の追い上げから必死に逃げる瀬戸だったが、タッチ差で4位、メダルを逃した。その差は僅か100分の5秒であった。
リオデジャネイロ五輪で獲得した銅メダルから5年、遂に瀬戸が表彰台に登ることは無かった。それは、この日同じ決勝の舞台に臨んだ長年のライバル萩野公介も同じである。
苦しみ続けた日本競泳界のエースが東京五輪最後のレースでメダルを獲得。もしこの物語がフィクションであればそうした有終の美を飾る展開が望まれるだろう。
しかし、現実はそう甘くない。
メディアは「瀬戸大也、銅メダルならず」と報じた。
勝者がいれば敗者が存在する。奇跡の瞬間はそう簡単に訪れない。
そうした二面性を教えてくれるのもスポーツの魅力だと思う。
東京五輪での瀬戸大也はメダルという「結果」を出せずに終わった。
ただ、レース終了後の彼の表情を見れば、アスリートたちが死力を尽くして追い求めてきたであろう「結果」も何か小さなものに見えてくるのは何故だろうか?
答え合わせ
スポーツは結果が全てなのか?という問いに対して以上3つの事象から考えを述べてきた。
その中で感じたのは、スポーツを競技として捉える上で「結果」という要因が占めている割合は非常に高いということだ。
私たち観客は、日本人選手がメダルを取れば注目するし、強いモノ同士がしのぎを削る勝負に興奮させられる。
それはプレイヤー側も同じで、彼らは「勝ちたい」という思いがあるから厳しい練習や節制に耐え抜くことが出来る。そして、その成果が驚異的なパフォーマンスに繋がるのだ。
そういった意味で、スポーツにおいて「結果」は常に中心的な概念として存在する核であると私は考える。
ただ、その「結果」を凌駕するような瞬間がスポーツには必ず存在する。
それは、スポーツが人間によって行われているからである。
どんなトップアスリートも1人の人間だ。時には調整を失敗することもあるし、極限状態の中で重要な場面にミスを犯してしまうこともある。
そうした彼らの人間臭さがスポーツをスポーツたらしめていると私は思う。
もしそうでなければ、高性能のロボットがプレーする競技を、自宅の快適な空間で1人で観ていれば十分なのだから。
また、それは観客にも言えることだ。
何かを好きになる時、人は明確な理由がないことがほとんどだろう。
スポーツに置き換えると、例えば多くの人は強いチーム、上手い選手に魅力を感じるが、無名な選手、チームに魅力を感じるのもファンが人間だからである。人は時に弱きモノや敗者と自分を重ねるのだ。
ここまで色々と書き連ねてきたが、私から競技スポーツに関わる全ての人々にリスペクトを込めてこの言葉を送りたい。
「スポーツは結果が全てだが、それは全てではない」