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普通という異常な言葉

つい先日、カメラマンの男の子とこんな会話をしていた。
健常者と障害者(障がい者)の違いってなんなんだ?と。
よくあるのは、視覚、聴覚、その他手足などに日常生活を送るのに支障をきたす「障害」を持っているかどうかかなと。
先ほどもTwitterである投稿に「(マイノリティーに対して)自分たちに決定権があるかのように判断したり振る舞うってことが既に人権を無視している」というのを見て、なるほどなと思った。

そもそも、どの視点が一番偉いんだ?ということである。
そして、どうなっていたら偉いわけ?という話でもある。
例えば、タレント、特に芸人は「素人」と言う。「素人のくせに、」と。
政治家は「誰に対して物言っている!」と言う。
タレントたちは自分の力で芸能活動をしているので、特に何も思わないけれども、政治家は人の気持ちを掴む力は自分の力だけどもみなさんの一票ないとそこにはいないよ、って意味でとても見苦しい時がある。

状態の捉え方を考える

話が逸れた。
とにかくフラットな視点でいることが難しいのが人間であるのだけれども、一般的に言う「障害」について同じように考えていくと、我々の理解は少し変わるのではないかと思ったのだ。
多くの場合、体についているものは基本的に機能する状態で生まれてくる。
それが一部機能しない状態が「障害」と呼ばれるわけだ。もちろん後天的に病気や事故でそうなる場合もある。ここでは、先天的な視覚、聴覚の場合で考える。

先天的な場合、そもそも「無い」感覚が「無い」ということにすぐには気づくことができない。そして、「無い」ということが「普通」の状態で成長していく。もちろん、成長過程でその「無い」ことに気づき、それでも成長していく。結局のところ、その人にとって「無い」感覚は、「無い」でしかないのである。いくら「普通」の人が同情したり、説明したところで関係ないのではないかと思う。

無いものは無い、むしろ強み

その分、「普通」の人たちとは違った個性を発揮することができると思うのだ。「視覚」を持たない人たちは、人の顔や色をどのように表現するのか。
「聴覚」を持たない人たちは、虫の羽音や踏切の音をどのように表現するのか。このような人たちの表現はきっと個性的で魅力的な気がする。少なくとも、想像を飛び越えてくる(そもそも想像ができない)に違いない。彼らの普通は 、おそらく「個性」として受け止めるに値するものに違いない。

そもそも「視覚を持たない人」にとって「視覚がない」ことは「普通」。
そもそも「聴覚を持たない人」にとって「聴覚がない」ことは「普通」。
ここに「普通」のあり方なんて議論の余地などない。

この世界は、比較的多数派の「普通の人」が基準にされて作られているため、「障がいを持つ人」が暮らすにはまだまだ不自由なことがばかりではある。だからそういう人たちに対してのサポートはこれまで以上に考えていくべきであると思う。
一方で、同情な感情はすぐに改めるべきだし、それこそ、なぜ「普通」が偉いのだ、である。

普通の終焉

このご時世、もはやどんな状態が一番生き易いかなんかわからなくなっている。ただ、少しずつ見えてきているのは、「個性」をいい意味で活かしたり発揮したりすることでそれなりにおもしろい人生を送ることが許される時代になってきた、ということだ。
「普通」でいたいなんて、おかしいんじゃない?ってもうそろそろ感じよう。

「Life less ordinary.」という映画を思い出した。

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