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一人で地元に一時帰省した話

所要があって、子どもたちを夫に託し一人で帰省した。
天気予報は雨~雪マーク。クリーニングから戻ってきたまましまってあった冬用のグレーのコートを羽織って、ある程度の寒さを覚悟して新幹線に乗った。大宮-盛岡間は二時間弱であっという間に地元についた。
ホームに降り立ったときはさほど寒さを感じなかったけれど、駅舎を出て日陰にいたら風が冷たくて慌てて持参していたストールを巻いた。
雪か。
青空が見えていたが、細かな雪が舞っていた。雨か雪か判断が微妙な程度。
一泊用のキャリーバッグをガラガラ引きずって駐車場へ。その途中、岩手山が見えた。岩手山を見ると帰ってきた感が倍増する。

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岩手山がよく見える地域で育った。大学まで実家から通っていたので、もう22年はほぼ毎日岩手山を見ていたことになる。

就職して、県内の南にの方に離れた病院で働くことになった。岩手山が見えない生活が始まった。岩手県って広すぎる。
よく晴れた日だと病院の5階から岩手山が見えると言われたこともあったけれど、なかなか見える日はなかった。
就職しても時々というか割と実家に帰っていた。高速道路を使えば一時間かからない距離。夜勤明けでそのまま車を走らせることもあった。
東北自動車道を北上すると、紫波の辺りから岩手山が大きく見え始める。あぁ、帰ってきた…岩手山だ…と思った。曇って見えない日は何となく心の中もスッキリしなかった。岩手山を見に帰っていたようなものだけど、なんだかんだで母親の元に帰っていたことも否めない。「また帰ってきたの?こないだも来たばかりでしょ。」なんて言いながら、自宅に戻るときは手料理を持たせてくれた。母の手料理はどれも美味しかった。母親の料理が上手すぎて、私は料理ができない大人になってしまった。今になって苦労している。
結局その病院から岩手山を見ることができないまま退職した(未だにあの病院から岩手山が見えるのは噂に過ぎなかったのではと思っている)。そして岩手山から500キロも離れた東京に引っ越し、結婚して子供も二人出産した。子供を連れて時々帰省しては岩手山を見ることを楽しみにした。娘にも岩手山の存在を教えたりした(もう、覚えていないと思うけれど)。

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駐車場で車を見つけてエンジンをかける。いつもは夫が一緒に帰省するので私が運転することはほとんどないが、今日は私一人だ。普段ぼんやり助手席から眺めていた景色を自分で走らせる。
東京に引っ越すまではよく運転していた道。建物が建て替わったり道路が拡張されていたり様変わりはしたけれど、慣れた道、という感覚はあった。二車線で路線バスと並走しながら、もうすぐバス停だからそのタイミングで左車線に入っておこう、このままだとこの先右折車で足止めをくらうことが多い、とか。あの店に入るには右折だと入りにくいから少し遠回りして左折で入れるようにしよう、とか。
あまり考えることなく勘というか感覚で運転して目的地へ行く。

予報とは裏腹にどんどん晴れて青空が広がってきた。なんだってこんなに晴れるんだ。母は晴れ女だったのか。通夜までは雨だったのに翌日の火葬と告別式は悔しいくらいに晴れたことを思い出す。今回は「医学貢献者慰霊式」のための帰省。母は持病があったが、ハッキリとした死因を特定できず病理解剖したのだ。

病理解剖は医師の方から父に「死因が分からないので解剖させてください」と話があり、判断に困った父は私に電話をしてきた。新幹線で地元に向かっていた私は「解剖しても原因がわからないことが多いだろうけれど、それでもいいなら解剖をお願いしてもいいと思う。」と半ば父の背中を押すような形になり、父は同意書にサインをした。
予想通り、ハッキリとした死因は分からなかった。採った組織を精査するから結果が出るのに半年ほどかかる、半年後くらいに病院に電話をしてほしいとのことだった。言葉は悪いが「結果を知りたければそっちから連絡をしてくれ」と言われたようなもんだ。何だかガッカリした。

「医学貢献者慰霊式」。
私には違和感があった。私の母は今後の医療の発展のために病理解剖をお願いしたわけじゃない。「母」の死因を知りたいからお願いしたのだ。今後のいつかの「誰か」のためではない。なのに医学貢献者にされてしまった。
母方の祖父はそれこそ、医学貢献者だった。祖父も持病を長く患っていて自ら自分が死んだときには今後の医学のために献体に出してほしいという希望があった。祖父が死んだ翌早朝、大学病院のスタッフが祖父をつれていき、3年後に骨になって帰ってきた。
でも母の場合は祖父とは違う。意図せず突然死を起こし、本人の意志なく医学貢献者にされてしまった。もちろん同意したのは遺族である私たちだけど、受け止め方はこうも違うのか。
慰霊式は型通りに院長が挨拶して順番に献花して滞りなく、あっけなく終わった。涙を拭っている遺族の方もいたし、私も涙ぐむかと思ったけれど、なんとなく白々しい気持ちで終わってしまった。

この慰霊式に父は最初から出席しないと決めていた。父の元に病院から手紙が届き、写メが私のところに届いた。「俺は行かない」と一言本文に添えて。思わず「えっ、行かないの!?」と即座に返信した。「だって何も解決してない」と返ってきた。遺族で誰も行かないのも母が寂しいだろうなと思って、私と都合がついた母の妹とふたりで出席した。出席して、白々しい気持ちになってようやく、父が行かないと言った意味が分かった気がする。

その夜はよく冷えた。仕事で慰霊式に間に合わなかったが連休が取れた弟が暗くなってから帰ってきた。皮肉なことにと言っていいかわからないけれど、慰霊式の日は父の誕生日でもあった。私は事前にプレゼントを送っておいたが、弟は持参した。慰霊式の話はすぐに終わってお誕生日おめでとうと乾杯した。弟が持参した芋焼酎は、普段焼酎を全くと言っていいほど飲まない私にも美味しかった。度数が強かったのでお猪口でロックでちびりちびりやった。ポツポツ音がし始めたので雨かと思ったら雪だった。真っ暗闇の中どんどん車に積もっていった。そんな夜だった。

翌朝はこれまたよく晴れた。あっという間に道路の雪は溶け、弟と昼食をとってから駅まで車で送ってもらった。

新幹線が出発していい天気だなぁと外を眺めていたら、窓の脇にあるフックに掛けたさっきまで着ていたコートが目に留まった。東京を出る直前に取り出したコートだ。「あぁ、これもそうか」と思った。私がまだ岩手にいた時、後輩と東京に遊びに行く話を母にしたら「このコートなら季節的にもちょうどいいじゃない?派手じゃないから中に何を着ても合うし。」と選んでくれたものだった。このコートももう10年くらい使っているのか。まだまだ使えそうだな。このコートを買った時は東京に住むことになるなんて思っていなかったし、こんなに早いタイミングで母が死ぬとも思っていなかった。

母が死んで、時間の経過とともに心は浮上してくると思っていた。実際に涙を流す回数は減った。でも、日常のふとした瞬間に母を思い出す機会が増えた。母を思い出ししんみりしたなんとも言えない気持ちになって、その日は寝るまで浮上できないこともしばしばだ。

この母が選んでくれたコートと共に岩手山に背を向けて東京へ戻る。日常生活が待っている。それが私の人生だ。保育園にいる子供達を迎えに行って、ギャーギャーやりあっているところに私の大きな叱り声が飛ぶ。それが今の私の日常だ。でもその日常の基礎を作ってくれたのは母だ。今日も明日も明後日も母との出来事を思い出して生きていく。

来春、岩手に家族で引っ越すことが決まっている。もちろん母も知っていたし、楽しみにしていた。でも間に合わなかった。

それでも引っ越して、岩手山がよく見えるところで生活するんだ。

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