逐電
どうしてこんな事に成ったのか、もはや誰にも判らない。
越智先生の合図を皮切りに、斎田に坂井に白川に──ああ白川は転校したのだった。一年も二年も三年も、まるで蜘蛛の子を散らすように者皆逃げていった。部室には誰のものともわからないバットやグローブが転がり、擦り切れた硬球が淋しげに散乱している。
鬼そのものの越智先生の足音がどかどか近付いて来るのが分かった。私にはもう、時間が無い。背中を伝う冷たい汗に押しつぶされるほど生を感じる。
「おい何やってんだ! こっち!」
「えっ」
「はやく!」
「うわあ!」
セーラーの後ろ襟をぐんと引っ張った腕に、見覚えのある時計が巻き付いていた。そのまま狭苦しい掃除用具入れの中へと引き込まれて身動きが取れない。埃っぽい暗闇の中で漸く捉えた、思い通りのデジタルブルーにどきりとした瞬間。
「浅木く──」
「しっ!」
咄嗟に私の口元を押さえつけた手が意外に大きい。可愛らしい顔をしていてもやっぱり男の子なんだなと思った。
「んー」
「しー!」
「……んんー」
ひんやりとした空気は少しだけカビの様な匂いがしたけれど、強ち嫌いでもない。平行に空いた通気孔から鬼の足音を探す。
「……行ったかな?」
「んっ」
針の様なか細さで射し込む光。後ろざますぐ斜め上にある茶色がかった目が細められていて、ともすれば瞳孔の収縮を確認出来るくらいの距離感。密着という言葉が脳裏を過って、浅木くんが苦しげに息を吐くのが分かった。
「……行ったな」
「んー」
「あー危なかった。先生すぐそこなのに、お前ちっとも逃げないし。」
「ん、」
「やっぱこういうとこの方がかえって見つかんないね。良かった」
「んんー」
「ん?」
「……ん、ん、ん、ん!」
「あ、ごめん」
浅木くんは何も無かった様に私の唇から手を退いた。口元が冷たい外気に触れる。何だか名残惜しい。
遠くから吉見と叫ぶ鬼の声。そろそろ此処も危ないのかもしれない。
「吉見さんはもうだめかな……」
「ど、どうしよう」
「大丈夫」
俺が守る! とかなんとか、消えてしまいたくなるような恥ずかしい台詞を堂々と口にする浅木くんが今日も好きだ。こうしている間にも一歩一歩、ゲームセットは近づいて。
やべっと短く叫んだ浅木くんは直ぐ様私の手首をひっ掴み、そのまま薄暗い校舎の奥へと疾走した。
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