018 褒める or 褒めない、どちらが育成につながるのか?
良い組織には「褒める」文化があると良く聞く。
確かに、褒められると嬉しい。
私の中にも、何年たっても心の支えになっている「他者からの何気ない褒め言葉」がある。
言った本人は覚えていないかもしれないけど、「ああ、他人から見て自分はこんな強みがあるのか」と思うようなフィードバックは何年経っても忘れられない。
褒め言葉にはこのような力強さがある。
しかし、これとはまったく逆の説がある。
アドラー心理学では「褒めてはいけない」となっているから困ったものだ。
ただし、これも言われてみれば納得する。
大したことじゃなくても褒めまくる人がいるけど、効果が感じられないばかりか、むしろ逆効果を感じるからね。
上から目線、支配しようとしている、そんな下心を感じてしまう。
アドラー心理学ではなぜ「褒めてはいけない」と言うのか?
アドラー心理学の「褒めてはいけない」について、「嫌われる勇気」で有名な岸見先生は、次のように語っている。
なるほど、必ずしも「褒めちゃいけない」ってわけじゃないんだね。
じゃあ、どういう褒め言葉がダメなのかと言ったら次のとおりだ。
なるほど。
下心なく、具体的な行動に対して、本心から褒めるのであれば良いらしい。
「褒める」が「ご褒美」になるとマイナス効果
上記の岸見氏の説明は分かりやすい。
確かに、的外れな「褒め言葉」は「私はあなたを真剣に見ていません」というメッセージでしかない。
加えて「私はあなたを褒めてます、私っていい人でしょ」という下心までチラチラ見えてしまう。
それでも「まったく褒めないよりマシ」とうそぶく人はいる。
でも、上から目線で「ご褒美」のような与える褒め言葉は、デメリットの方が大きいようだ。
動機付け理論で有名なエドワード・デシは、著書『人を伸ばす力』で、「ご褒美」を与えることのデメリットとして次の実験を紹介している。
この研究結果を踏まえると、「褒める」が「ご褒美」になってはいけないことが分かる。
岸見氏は「下心」と言ったけど、外発的動機付けという意味では「ご褒美」も「下心ある褒め」の一つと言える。
ポジティブなフィードバックが良い
ここまで考察して思ったけど、どうやら「褒める」という言葉には、「ご褒美」の意味と、「ポジティブなフィードバック」の意味、両方があるようだ。
「ご褒美」と「ポジティブなフィードバック」、どちらが効果が高いかと言ったら、もちろん後者である。
自分を振り返ってみても、「ポジティブなフィードバック」は、相手から存在を認めてもらえた気分になり、次の4つの実感がある。
①褒められると「ここに居ていいんだ」と居場所感や仲間意識が湧く。
②褒められると「今の自分でいいんだ」と自己肯定感が増す。
③褒められると「自分にもこんな影響力があるんだ」と自己効力感が高まる。
④とくに自分でも気づいていない「強み」をフィードバックされると上記の効果はさらに強くなる。
これが「ポジティブなフィードバック」の効果と言える。
では、どうやったらこの効果をうまく使いこなせるのだろうか。
これまた実感だけど、次の3つを心がけたら良いと思う。
①相手をしっかり観察した上で褒める。(特に強みを見る)
②ポジティブな感情が湧いた時だけ褒める。(相手に興味を持つことでいつでも出来るようになる)
③逆にネガティブな気持ちで褒めることをしてはならない。(下心が出るから)
「褒める」は「挨拶」は一種である
ところで、「褒める(ポジティブなフィードバック)」の根本的な意味って何だろう?
これについては、私には「仮説」がある。
「自分の存在を認めてもらうこと、相手の存在を認めること」。
これが「褒める」の意味だと思っている。
要するに「挨拶」と同じってことだ。
挨拶の原理について、ピーター・センゲは著書「学習する組織」で、サハラ砂漠周辺に住むウブントゥの挨拶を紹介している。
ピーターセンゲの解説では、「あなたが私を見るまでは、私は存在していない。あなたが私を見るときに、初めて私が存在し始める。人間は、他の人々がいるおかげで人間になる」としている。
すごく哲学チックな話だ。
要するに「人のアイデンティティは他者によって築かれる」ってことだ。
でも、これって考えてみればすごく当たり前の話でもある。
我々が言葉を使えるのも、生まれ落ちた時、すでに社会に言葉があったからである。
人は人によって人になる。
このことを踏まえると「挨拶」や「褒め言葉(ポジティブなフィードバック)」をせずに人材育成はありえないことが分かる。
人のアイデンティティは、他者の視線、言葉、挨拶、フィードバックなどによって築かれるのである。
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