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おしゃれアイテムとして本を扱うなんて 『本の読める場所を求めて』全文公開(10)

第2章 いったいなんなのか、ブックカフェ
⑩おしゃれアイテムとして本を扱うなんて

こういうことを言っていると、しかめっ面、怪訝そうな目、心配げな顔つきをしてくる人が必ずいる。本の本分は読まれることであり、空間演出のためのアイテムなどでは断じてない。本に対して、作者に対して、読者に対して、失礼ではないか。

無論、ひとりひとりが本と向き合う切実さや真摯さを軽んじる思いはどこにもないし、僕自身、本といえばまずなによりも読むためのものだ。でも、ある人々によって「素敵な風景として眺められて終わる」ことが真面目に読みたい人の切実な読書を侵さない限りにおいては、言い換えれば本とのチャラい関わりがガチの読書を侵さない限りにおいては、僕はもっともっとチャラい可能性が開かれていけばいいと考えている。もっともっとおしゃれであるとか便利であるとか勝手のよいものとして利用されていけばいい。だから、「ブックカフェ」であれなんであれ、本が並べられた場所が増えていくということに対しては、(本が本としてちゃんと敬意を持たれて扱われていることを前提にするならば)肯定以外の気持ちがない。

本がよりさまざまなところに置かれ、それが意図されたものであれたいした目的意識もないものであれ、本との偶発的な出会いがより多く創出されていく世界は、僕が思うに、より豊かな世界だ。本が、今よりももっとおしゃれでポップでクールなものになって、それを持つ人が今よりももっとなにかクールな存在として眼差される、そんなアイテムになっていったら、「それはなんだかシンプルに歓迎していいことなんじゃないの?」と思っている。

僕はたとえば「スケボー」というと「あ、なんかかっこいい」と感じるのだけど、たとえば「ボルダリング」というと「あ、なんか充実してそう」と感じるのだけど、本も何かしらそういうものに近づいていったらいい。それで今よりも多くの人にとって本が身近な存在になり、今よりも多くの人が本を読むようになったらいい。入り口のハードルは下がれば下がるほどいい。

自分には縁のないようなおしゃれな感じの雑誌で読書や本屋の特集が組まれているのを見かけると、いいじゃんいいじゃん、と思う。誰でもいいけれど、星野源や蒼井優みたいな人たちや、読書芸人であるとかの大きな影響力を持っている人たちが、「この本が好きなんですよね」だとか「この本に影響を受けて」だとか言ってみせることは、本を取り巻く世界にとってただただポジティブな、いいことだと思う。僕が高校時代にナンバーガールに熱狂して、歌詞やタイトルから知って坂口安吾や萩原朔太郎の小説を、林静一の漫画を読んでみたような、そういうことがたくさんの場所でたくさんの人に起こったらいい。

そういうものの積み重ね、刷り込みの継続によって、本であるとか読書であるとかのイメージが今よりも明るいキャッチーなものになっていったらとてもいい。「それで誰が損をする?」という気持ちがある。

それはなにも、「読書はすばらしい。だからより多くの人がするべきだ!」なんていうことではなく、極めて利己的な理由でしかない。

本を読み続けて本に人生を支えられてきた者として、これからもたくさんの本を読み続け本に人生を支えてもらいたいから。そのためにもこれからも本がたくさん出版され続けてほしいから。本を売る場所にあり続けてほしいから。というそれだけだ。好きな本をつくってくれる出版社が消えるのは悲しいし、好きな作家が十分な収入を得られないなんて悔しい。よく行く書店がなくなるなんて聞きたくない。それは僕にとって完全に損失。そういう損失や喪失を味わわないで済むためにも、今よりも多くの人が本を読むようになって、本というジャンル全体に流れ込むお金の量が増えたほうが、僕たち読書ファンにとっても何かしらいいことになっていく(悪いことにならないでくれる)んじゃないかと素朴に思っている。素朴すぎるだろうか。そうかもしれない。でも少なくとも、本というものを何か高尚な、限られた人だけが享受するものだと考える、排除の身振りを伴う、選民的な、総じて内側に閉じられた態度よりも、ずっとずっと健康的だと僕はわりと信じている。

ところで、本にまつわる言説の中で、明るくキャッチーでおしゃれで愉快な読書の対極にある、僕が強い嫌悪感を覚えるものがあって、それは「読書離れを憂う」という類いの話だ。憤懣やるかたない(ブックカフェの話からだいぶ離れてきたぞ……!)。





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