刹那主義
生きているかもわからない未来のために、体を削り、心を削り、次第に濁っていく気持ちに蓋をして、将来に奉仕することに嫌気が差しました。私はいま処方薬の用量を無視して服用しながら、この文章を書いています。それが体にとって害となることは理解していますが、あるかもわからない将来よりも、地を這い、小石で血まみれになった心を守ることを優先するのは悪でしょうか。その場凌ぎの生き方は、刹那主義は、非難されるものなのでしょうか。
私は明日が来ることが怖くてたまりません。今日も飛び降りたい衝動を抑えるために、処方薬を過剰摂取したのです。そして不安にベールをかけ、曖昧になった脳みそで生きることへの恐怖を和らげることでしか、生きていくことができないのです。
明日が来なければいいなあ、と思います。明日の予定も、明後日の約束も、全て無くなってしまえばいいなあ、と思います。明後日の約束は、本来なら楽しいことであるはずなのに、私の脳は壊れているので、幸せを正常に享受することができません。楽しいことですら楽しみに思えないのなら、残るは破滅願望だけです。
小さい頃に、母が連れて行ってくれた絵本がテーマの遊び場を思い出します。テーマパークのように展示も凝っていて、まるで絵本の森に彷徨ったかのようでした。だいすきな本に囲まれて、心が躍ったことを覚えています。
しかし近頃は、本が読めなくなりました。近頃の私は生きること自体がこの上なく苦難で、生きることに気力を全力投球しているため、本を読む余力がなくなってしまったのです。好きなことすら満足に行えないのなら、私はなにを楽しみに生きたらいいのでしょうか。なにを生き甲斐にすればいいのでしょうか。このように正常な幸せを感じることができなくなった私は、薬によって脳の物質を無理矢理コントロールすることでしか、幸せを得ることができなくなってしまったのです。
明日は世界が優しくなりますように。おやすみなさい。