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「死を選ぶ尊厳」について考えたこと

おはようございます。私がこの記事を書いているのは朝なので、挨拶はこれで始めさせて頂きます。
さて、実質私に取ってこのマガジン部屋、エッセイ要素が強く、本当に自分の思ったことを正直に書きたいので、テーマ選び、しかも1回目と言うことで慎重になりました。だけどあっさり決まった表題。
私は生死について、よく考えます。

それは私が、AC(アダルトチルドレン)という部類の人間にカテゴライズされることが、大きく影響しているからだと思います。
私の家庭環境などについては特に掘り下げないですが、イメージつきにくい方、親ガチャとか毒親とか、最近よく聞くあれですね。
ACは専門用語ですが、正式には病気の名称ではなく、病気に至るまでの背景用語みたいなもの。まあ、親ガチャとか毒親は前者をキャッチーに表した感じ?とでも言うのでしょうか?
いずれにせよ当事者としては、広めるきっかけに役立ったキャッチーさだとしても、本質を知らず知った気になられるのは少々腹が立つし、こういう言葉が流行った途端、ビジネスに変えようとする輩も多いので、何だかなーと思う毎日です。

こころと脳、どっちが主導権を握る?

人って辛い想いや経験をすると、心がやられると思いがちですが、実は脳も密に関係していると私は考えています。
これはもちろん実際の臨床データを基に証明されていることで、精神疾患は脳の病気とも言われてきています。
けれど今回私は、脳に遺伝的要素が宿っていた例とは別に、脳について考えてみました。
①辛い状況に直面したとき、が先に働き最善を目指す→酷使し過ぎて正常な判断や思考ができなくなる→にネガティブな情報や判断が送られ、心は極めて弱まる。
逆も然りで、
②辛い状況に直面したとき、が先に反応し人の悪意やストレスを察知する→強烈なネガティブ要素は心を疲弊させ、心の枯渇状態が発生→に正常な意思を送れない。故に脳の判断は鈍る。

これは完全に、私の個人的見解ですが、卵が先か鶏が先か議論に通ずるところがあると思います。
そして厄介なのが、同時進行で脳と心が弱まっていく場合も、私はあると考えています。きっとその状況まで来ると、精神的な病名がつけられると思うのですが、何にせよ、生きていくのが困難になる場合があります。
※ここではAC背景がある人だけではなく、生まれ持った特性や、健全な家庭に育ってもどこかのコミュニティで傷を負った人、つまり、傷ついた全ての人について語っています。

「生」って正義? 「死」ってなぜ止めるの?

こうやって生死に辿り着いたとき、私は常々、なぜ人は、生死を自ら選べないのか?という疑問に辿り着きます。
言葉が強くなりますが、私は子供という存在は、親の勝手で作られ、選択肢なく生きる方へと進まされる、ある意味憐れな存在と思っています。もちろんそう思われないためにも親は目一杯子供を愛し、味方でいる。それは当たり前の理論として、それでも生死の選択権が、子供にも、そして今を生きる私たちにもないのはおかしい、だけど暗黙のルールで私たちは死を口にしにくい。「死にたい」と言えばかまってちゃん扱い、笑ってしまうほどひどいものです。
現在の私の中では、まだ死ねないという気持ちと、いつ終わってもいいという想いが、混在している。これはもう、最初の方でも述べた、「枯渇」という言葉が、心を表す表現としてとてもしっくりきます。最適解です。
底の空いたバケツとか、ひびの入ったグラスとか、そういう風に心を表す人もいますが、私の場合は充電1パーセントの状態が延々と続いている状態、常態化しているという言い方の方が正しい。
休み方が分からない。幸せが分からない。未来を構築する元気がない。
つまり、死にたいと言うより、生きる元気がないんですよね。
そして、この世界と相性が悪かった、と言ってを選ぶことがそんなに悪いか?と考えてしまうのです。

だけど私は過去に、過ちを犯しました。
弱っている大切な人に対し、「大丈夫だよ、良くなるよ、私がいるよ、ずっと一緒にいるからね、きっと良くなる」……。
へと誘導する言葉を、送ってしまった。
今なら分かるのに、どんなに優しく前向きな言葉も、本当に傷ついた人には、重荷や凶器となる可能性を秘めている。

カウンセラーの先生と話して大泣き。

まあまあ今の私は元気なんですが、昨日行ったクリニックで、私は意図せず大泣きすることになりました。
意図せずと言うか、元気のようで少し弱っていたのかもしれません。先生に、あるマンガの存在を知らせたことがきっかけでした。
「こころのナース夜野さん」水谷綠さん著。
精神科病棟、デイケア、訪問看護、などなど場所は多岐に渡りますが、所謂精神疾患を取り扱ったマンガです。水谷さんは様々な分野に精力的チャレンジされている方で、とにかく心理描写がリアル。

『こころのナース夜野さん』 水谷 緑 | ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス)|小学館

この巻の中に、「精神の寿命」という言葉が出てきます。
先生に伝えたところ、「ちょっとドキッとするね」と真剣な表情を作られていました。私自身も、何年か前に読んだはずなのに、最近思い出しまた読み直し、この言葉が出る回の人物に、あまりにも自分を重ねてしまいました。心がざわついていたのだと思います。
先生とは様々な話をしました。簡単に述べますと、生きる要素が自分には足りなさすぎる、家族もその材料にならない、いつまで家族に対しケア意識を持てば良いのか、自分を理解してくれる人が現われる気がしない……などと言ったところで、「先生だけは、私が死んだら許してくれますか?」と訊いた。恥ずかしながら嗚咽し、子供のように、縋るように、
「先生だけは、私が死を選んでも、頑張ったね、ここまでだったね、よく頑張ったね」と言ってくれますか?と訊いてしまった。
そうしたら先生も(申し訳ないのだが少し涙ぐんで)、「大丈夫だよ、そうだね、頑張ったね」と言うよ。と仰ってくれた。なんだか言葉と言うよりも、その空間が嬉しかったのが鮮明だ。そしてこの会話の流れで出たのが、表題の「死を選ぶ尊厳」という言葉でした。
生を美談にする人が多いから生きることに疲れる人がいる。生ばかりに重きを置きすぎている。どうして死を選ぶ制度がないのか、という議論の中、先生が綺麗に言語化してくださった言葉だ。「死を選ぶ尊厳」
明日を生きられない人、生きたくない人にとって、これ以上ない、救いの言葉だと思っています。だから決して忘れぬよう、私はこの言葉と共に自分の死生観を、noteに記した。カウンセラーの先生にも、感謝の意を込めて。
そして今も今までも私に取って、小説を書いていく上で、生死は切り離せない。

最後に

私はまだ死ねないけど、生きたくもない。それが現状。
だけど私のような苦しみを抱き闘っている人に、この言葉が届いて、少しでも心に柔らかな風が吹けば……他の誰でもない「私」が嬉しく思う。
これは私が私の為に書いた文章です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。おわり。



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