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余白をつくるために書く。

なんだろう。

他の言葉を紡ぐひとたちが、同じかどうかわからないけれど、あんなに毎日毎日、言葉に向き合い、文字を読み、綴ることを繰り返しているはずなのに、どうしてここに書き続けることができるのだろうってずっと思っていたんです。

きっとみんなは備えている語彙力の数値が高くて、流れるように書くことができるから、表現力の高い、言葉の架け橋をかけ続けることができるんだろうなって今まではそう思っていました。

それが違うのではないか?って最近になってようやく思うようになったのですが、そう気づかせてくれたのは、やっぱりがむしゃらに毎日書いたお陰かもしれないと気づいたりもして。

また変なことを言っているのは重々承知ですが…

ときどき、まだやらせるのかよーって思うような無茶振りが突然降りかかってきたりすることを、『神様の試練』だなんて言われていたりしますよね。

今まで辛いと感じてきたときも、多少なりともこの言葉の意味を信じてやってきていたのですが、結局後にはなにも残っていないんじゃないかって心の隅では思っていたりして。

信じたい気持ちと信じきれない気持ちが混ざり合うどっちつかずな自分にも気づかないフリをして蓋を閉めていた気がします。

その重い蓋をようやく開けて、自分を解放し始めたのがよかったのかもしれないのですが、あの言葉の意味はやっぱり合っていたんだなーって最近思うようになりました。

本当不思議なんだけれどね。
目に見えないものにも、やっぱりエネルギーみたいなものがあるんでしょうね。

いつものように無理難題にぶつかっていった私ですが、始めからいつもとは心意気?のようなものが違っていた気がします。


自分には無理かもなと一瞬は思ったのですが、同時に自分はどこまでならやれるのかな?って限界値を知りたいという気持ちが強くなったんですよね。

だからやれるところまでは、やってみようって思って。

そしたらやっぱりできたんですよね。

ヒヤヒヤするようなスケジュールもありましたが、でも絶対にやってやるって思っていたら、不思議なもので、イメージどおりに進むんですよね。


…本当に最後の最後までできるかどうかは、最後まで本当に分からなかったんです。

それでも自分の限界値を決めずに、諦めないで、足掻き続けたら、最大の難関だと思っていたことがあっさり終わったりして。

ほらね。と言わんばかりに。


これを不思議なものと捉える私は、やっぱり脳みそファンタジーなのかもしれませんが、こういう子供のような感覚って、大人になればなるほど、磨かれものなんだということも、分かったんですよね。


こんな風に思えるようになったのも、あの辛い経験が無かったら味わうことができないのかと思うと、やっぱり神様は意味のない試練を与えることはないのだと思います。


言葉を書き続けているのに、どうしてまだ書けるのか?という問いですが、それは本当に普通のことで、ただただ自分の言葉が溢れてくるから。


確かに毎日言葉を書いているけれど、それは自分の言葉であって自分の言葉ではないですよね。

だから自分の想いを出していくことで、余白が生まれて、ようやく深呼吸ができるようになる。

それは必要なことだから、だから書くことをやめないのだと。

また一つ、知らない自分を知ることができて、今回は神様の試練にうまく乗ることができなのではないかな、って思っています。

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