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グルーヴの扉、2枚目←(イマココ

振り返って過去を恥ずかしいと思うことも笑うことも出来るのだけど、
そもそも進化し続けるということはそういうことだ、と思うと、
開けた扉の中の次の扉に気付けただけで、
結構なワクワク充実感かもしれない。


一枚目の扉で終わりとは思っちゃいなかったが、
次が見えるまで、というのが辛かった気がする。
まだ開けられてないのだが、今は目の前の扉の存在が楽しい。

ふわふわした話はここまでにして、具体的に。


流れに乗ったり、押し流されたり、ゆられたり、
何か外の力によって自分の身体が動くときと、

自分の意志と筋力で身体が動くときと、

この違いを身体で感じる感覚は、
グルーヴ云々を感じるときに、とても近いものを感じる。


難しいのは、
グルーヴはそもそもその音楽が元々持っているものなのだが、
自分が演奏するとなると、
「元々あるもの」をある意味「自分で生む(再現する?)」。
この状態を作って、そこに対して、さらに自分の音が乗る、、
という、なんだか多層になっている。

ここが、立体的でないと、ソリスティックな音の並びになり、
継続する周期に音を乗せる、という音楽とは少し別ジャンルになる。


弾いている自分の音とは別のチャンネルが脳内にある気がする。

【出してる音チャンネル】(これがさらに多層あるがとりあえず)
【その曲の持つ周期、グルーヴチャンネル】
【その曲のテンポ、クリックチャンネル】

面白いのが、この下の2つも別チャンネルな気がするところ。


あとは、このグルーヴチャンネルの難しいところは、
【元々その曲の持っている周期】
自分で生むのだけど、それはあくまで【元々ある】ものなので、
出す音だけではなく、そのグルーヴを知っている必要があるということ。

でも、一度知ってしまうと、恐らくとても楽なのではと想像する。
頑張らなきゃいけないことが、ぐぐぐんと減る感じ。


自分の引き出しにあるグルーヴと、ないグルーヴ。
決まってる音を弾けば全て同じかというと、全く変わってしまう。
背景の波が変われば、そこに乗っかるものの流れや動きも当然変わる。

【自分ですること】
【任せて委ねること】
【自分でしているようで委ねること】
【任せているようで自分ですること】

この感覚が、普通に生きることとどこかリンクするのもちょっと面白い。

音楽も生き方も、知っているグルーヴの引き出しが増えると、
適材適所な動きになる、ということなのかな。

なんにせよ、結構にケッコーに、結構むずかしい。笑
でも片鱗に触れる時があるから、それが何なのかやっぱり知りたい。

(2013年3月26日 旧ブログ投稿記事より)


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