コインロッカーベイビーズを読んだ
コインロッカーベイビーズを読んだ、よくわからなかったが多分面白かった。
どうして面白かった気がするのに、よくわからなかったのかと言うと、少しづつ読んだから。また、時代にも理由はあると思う
まず、少しずつ読んだことによって出来た違和感について考える。
この本は情報量がすごい。背景説明も情景描写も鮮やかに表現されていて、集中して読んでいる時も文章ではなく、映像を見ているような気分になった。
特にグロシーンなんかは身の毛がよだつほどだった。
しかしながら、どうしても、自分と作者、登場人物とのテンションに差があると思った。
主人公たちは溢れ出んばかりのエネルギーでこの腐った世界を変えようと、自分の殻を剥ごうとしていて、作者はそれをとめどない文章で爽快かつ痛快に描いている。読んでいるだけでジェットコースターになったような気分になる。
そして、一度そのジェットコースターから降りると、「どうしてそんなに動いているの?」というような、しょうもない感想を抱いてしまう。
読んでいる間はなんてことない文章や物語の接続が、ふとした時に意味不明に感じてしまうのだ。
この本は劇薬だ。と評されることがよくあるが、その通りだと思う。
一気に読めば相当な影響力があると思う。
それを自分は少しづつ、薬を希釈しながら読んでしまった。
そのせいで、本とのリンクが切れてしまい、よくわからなくなってしまったのだと思う。
次に時代のせいについて考える。いや時代といっても自分のせいでもあるのだが。
この本は1980年だか70年だかに出版されており、当時の若者にブッ刺さったらしい。その頃の若者は、高度経済成長機が終わり始め、なんとなく世界が混沌から治っているような時代を生きていたのではないだろうか。
しかし、その若者たちの上の世代は、戦争を経験していたり、学生運動を勃発させていたりなどと(これは違うのかな?)、世界に対しての不満をぶちまける世代だったのだと思う。
だから、この本を読んだ当時の若者は、そういった「世界への反発」をしたいのに時代的にできない雰囲気の中で、この本を手にしたのだと思う。
そんな時代背景を考えると、この本はそんな燻っている(当時感)若者に対して「ダチュラ」を掲げているようなものなんだなと思った。
今は2023年。戦後なんだか戦前なんだかわからないが、少なくとも、当時の若者よりかは平和を享受し、平和に慣れている。戦争の語り手は1人また1人といなくなり、戦争の怖さや壮絶さは伝わりにくくなっている。
だからこそ、体制に反発すると言う行為は、漠然と「恐ろしく、やらない方が良いもの」と考えている。と、思う。
そしてこの思想は誰かからの受け売りではなく、自分の芯として備わっているものだと思う。
だから、そんな触れるべきではないものに対して触れるどころではなく、殴りかかるようにしているこの本には、この世には存在しない価値観を描いているように感じた。
自分がこの本を読んでよくわからないと思ったのは、そういった、自分に持っていない価値観を思いっきりぶつけられたからだと思う。
しかし、これは人によっては奮起するためのカンフル剤にもなるのではと思う。
自分は現在22歳。
さとり世代とか言われたように、確かに枕詞には「どうせ」とか、半ば諦めの中で生きている。
別にそれを悪いとか、良いとか考えることはない。
「吾唯足知」と言う言葉があるように、現状に満足する謙虚さがあるからこそ、さとり世代と呼ばれるほどの諦めを身につけることができるわけだし。
結局、物は言いようである。
しかし、全ての事象に当てはまるような言葉で片付けず、もう少し、自分の人生や世界に対して、貪欲になるべきなのでは?と思った。
またこの本を読むかは分からないが、次この本を読んだ時にどう思うかが、自分の問いに対する答え合わせなのかなと思う。
コインロッカーベイビーズを読んだ。よくわからなかった。
わかるような価値観を持てるようになりたいと、思った。