さみしいから、本を読む
ぼんやり見ていた動画で、林修先生が「友達がいなくて寂しいという人は本を読まない」とおっしゃっていて、んん…? となりました。曰く「友達がいないから本を読むのではなく、本を読むから友達はいらない」とのこと。
その動画では、それ以上持論が展開されることはありませんでした。なので、私は林先生の真意をつかみ損ねているのかもしれません。また、林先生自身「偏見」の持論だとおっしゃってもいました。
ただ、本当にそうなんやろうか・・・と考え込んでしまった。私はさみしくないから本を読む、あるいは本を読むから友達はいらないのだろうか。直感的に、そうではない、と思いました。
そのことをきっかけに思い巡らせたことを、少し書いてみようと思います。
私は一人でいるのが好きです。大勢とわいわいするより、一人で本を読んでいるほうがずっと好き。誰かと一緒にいると、たとえその時間が楽しくても、相手のことが好きでも、そろそろ一人になりたいなあと疲れてしまう。そして家に帰って本を読み、みるみる心に力がもどっていくのを感じます。
でもそれは、本当は一人でいたいとか、友達はいらないということでは決してなくて。
10代の頃から、人は好きなのに人が怖いという矛盾を感じて生きてきました。友達は少なく、両手で数えられるくらい。優しくて面白い子ばかりで、いろんな時間を共有してきました。たくさん助けてもらったし、今でもそうです。でも、それでも私はさみしかった。本の世界で自由にあそぶ喜びを知っていても、だから友達がいらないと思ったことは一度もありません。
きっと家族や恋人でもそうだと思うのですが、人間にはそれぞれ分かり合えないさみしさやかなしみがあるのだと思います。一人一人が、自分一人で背負っていかなければならないもの。
少し前にこんな note を書いたのですが、
ここにも書いたとおり、人間は一人一人宇宙であり、深い森のようだと思います。その思いは年々強くなっていきます。どんなに近しい相手でも、いえ、近しい相手であればこそ、それまで知らなかった一面を知るたび、私はこの人のどれほどを知っているのだろう・・・と途方にくれます。
家族でも友達でも他人は他人、人は本質的に孤独なのだと割り切れればいいのですが、そうもいきません。誰かとすべてを共有し、誰かのすべてを知りたい。そんなことをどこかで望んでしまうのです。不可能だとわかってはいても。すべてを分かち合いたいという願いは、私の中にずっとくすぶっています。
だから、ふとしたとき、人は一人一人全く別の生き物なのだと痛感し、たまらない気持ちになります。よく知る相手の、意外な一面を知ったとき。ふと漏らした本音に「それは考えすぎ」と返されたとき。人は変わりゆくものだと気づかされたとき。もう大人なのに情けないですが、さみしくてどうしようもなくなるのです。
そのさみしさを、私は抱えていかなくてはなりません。誰かに執着するのでも、依存するのでもなく。私は私のさみしさに責任がある。きっと大人になるということは、そういうことなのだと思います。ときに誰かと支え合いながら、分かち合いながら、それでも自分のさみしさは自分で引き受けて生きていく。
そんなとき、寄り添ってくれるのが本や物語だと思うのです。
誰にも依存したくないけれど(その人のことが大切だからこそ)でも、一人で生きていくには心許ない。そんなとき、いつだって本や物語が私を救ってくれました。
誰にも言えなかった思いを、登場人物が語ってくれたり。言葉にできない思いを、作者が代弁してくれたり。この世には、どんな思いでもわかってくれる誰かが必ずいる、と知りました。人は案外似たようなことを考えて生きているのだなあと思うこともあります。
世界には、まだ見ぬ理解者がたくさんいます。その人はもうこの世にはいないかもしれない。実在しない人かもしれない。でも、私はひとりぼっちじゃない。図書館に行けば、本を開けば、必ずわかってくれる誰かがいる。そのことを知っているから、私は本を読み続けます。誰かと思いを分かち合うために。分かってくれる誰かと出会うために。
私は、さみしいから本を読みます。さみしくなければ本などきっと読みません。
現実の世界がまぶしくて、ときに手に負えない。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。人が好きで、世界をもっと知りたいけれど、あまりに打たれ弱くて外の世界が怖い。友達が好きで、感謝しているけれど、どうしようもないさみしさがいつも心の奥にある。そんな私だから、本を読むのだと思います。
私はこれを、海に放つメッセージボトルのようなイメージで書いています。もしこれを拾って読んでくださった方がいたのなら、訊いてみたい。
あなたはどうですか?
友達がいなくても平気ですか? それとも、さみしいからこそ本を読みますか?