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カウアン・オカモトにいくらかの栄光あれ
まーた題名で言いたいこと言い終わってしまったので歌の話でもしましょう。
在京キー局10社だか二十社だかというおかしな歌を歌った奴もあろうことかカウアン・オカモトと同じ名前を持っていた気がする。
あまりに対極にいる人間が同じ名前なんて、ぼくはカウアン・オカモトを気の毒に思う。カウアン・オカモトの気の毒さは、気の毒などという次元では表現できないレベルである。
これまで日本では、女であるというだけで(2022年だったか23かに映画関係の現場のそういうのをああする団体ができた)、そして少年であるというだけでエンターテインメントの場で輝くためには甘んじて強姦されなければならなかった。もはや犯罪をされて黙っていろと強いられていた。
そしてそれをBBCは報道し、日本は黙殺した。何らか書いた本は提訴された。日本でエンターテインメントに出たいなら、輝きたいなら資本者に甘んじて強姦されなければならないと世界から思われた。
あるいはステークホルダーぐるみでその真実を隠し通して、きれいな部分だけはいどうぞと差し出されたものを日本人は見ているのだと世界中から思われた。
在京何局というおうたが思い出される。反社とつながっててもステークホルダーがかき消せるからお前らは黙っとればいいんやぞ。そいつが未だにぬくぬくと代取として君臨する。誰も追い出そうとせずに、傘下の連中はヘラヘラと脳死で従っている。へらへらステークホルダーからサラリーを寄越される。その手から生まれるコメディでどう笑えと言うのだろうか?
そんな手で生み出されたエンターテインメントに品質などというステータスは付与できるのだろうか?ぼくにはわからない。
ぼくはカウアン・オカモトのことをいまの今まで知らなかった。書こうと思った文があり、それを書き終わったけどさらにこれを書いてこちらを公開した。こんな弱小とすら形容できないメディアでさえそれをした。
さてぼくらが何の興味も持てない報道しかしない日本の報道メディアはいま何を報道しているだろうか?興味がわかないので知らない。そこに何らかのプライドは残存しているのだろうか?興味がわかない。
悲しいかな、情けないかなぼくもカウアン・オカモトの声を知ったのは興味がない日本のメディア媒体からだった。
さらに悲しいかな今日は、著名な叙述者が究極的に新しい書籍を出版する日でもあり、それ自体には何の非もないのだ。
願わくば、こんなにも正しく清廉なカウアン・オカモトの声が邪悪の枢軸たるエンターテインメントの影にかき消されぬことを。
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