知床の写真屋のプライドとインスタの承認欲求の違い
昨日はノーナレというテレビ番組の感想を書きました。ヘッダ画像をお借りしています……そしてその続きです。
この番組はその名前の通りナレーションがないことが特徴ですが、おそらくカメラ兼ディレクタみたいな人がしている(してる場面はカット)インタビューに撮影対象を答えさせて喋らせるみたいなことにはOK判定を下しているあたりを楽しむことがポイントです。
今回は知床というぼくにとっては一生住めそうにない場所に腰を据えて写真を取ったりなにか色々お造りになる夫婦の芸術屋の話だった。
そして最後らへんで肝となる言葉が夫の写真を撮る芸術屋(写真屋?)の口から語られたとぼくは思いました。
波濤が残雪に叩きつける岩場に彼はいて、何やら幹のしっかりした枯れ木を集めて土台を作っていた。
そしてはぎれのような物を鞄から出して、飾り付けたらそれは布か何かに印刷された、彼が過去に撮った写真だった。
写真は一度撮影して満足して終わるものではないらしい。
撮った写真をどこかに移動させて、このように大きくしたりして展示できることがでかい。
なんといっても今いる場所は野外です。風に写真(布)がなびくし、日が沈めば向こう側から日が照らす。写真の向こう側に太陽が見える。
写真を設置した場所でしか見れない何かが見える。
こうすることで自分が撮った写真と一生同時に生き続けられるというものでした。ぼくはなるほどと思いました。全く否定をするつもりがない。
ものすごくうがった見方をすると、Instagramって全く同じ摂理で成り立っていると思わされます。
人々は承認欲求でそこら中に写真を撒き散らす。わざとネガティブに表現しましたが、別に自分が命を削って手に入れたアカウントに写真を貼り付けるんだから問題ないでしょう。
それを見る側のアカウントがある。見る側の環境は得てして多様性に満ち溢れている。電車の中で見るかも知れない。企業の休み時間で見るかも知れない。
前者の場合はあたしも今からそういうところでうめー珈琲を飲みながら写真を撮ってやるからな、後者の場合はあたしもそういうところで昼休みを過ごしたかったな、明日は休みだし似たようなことがしたいな、というポジティブな経済的行動動機を喚起していますね。
「俺がお前の写真にハートマークをつけるから、お前も俺にハートマークをつけるよな?」みたいな承認欲求互助会みたいなことじゃなければ健全です。
果たしてめちゃくちゃ寒そうな夕方(あるいは朝)の波打ち際にブワっと貼られた彼の大きな鮭?の写真は、向こうからの陽の光に照らされて、強い風に揺らされて、そこらの屋内展示場に置かれた形とは全く異なる次元の様相でした。
そしてまたそれを写真に撮った。