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世界の北野、世界のスコセッシ

カジノという映画を観ています。ヘッダ画像をお借りしています。

めちゃくちゃ長いので、小休止をとって文を書いている。だからまだ観ている途中です。確か3時間ぐらいある。でも気にならないレベルの楽しさがある。

主にジョー・ペシのせいで残虐性に優れてしまっているのだが、ぼくは先にアイリッシュマンとかを見ていたので慣れを手に入れることができていた(後述)。

どれくらいこの視聴体験が楽しいのかと言えば、ああ俺はマーティン・スコセッシの文脈と出会うためにこのくそ長い映画視聴生活を続けてきたのだ、とユリイカ式に理解してしまうほどだ。なにせ本当は昨日見たユーピープルという映画の感想を書こうと思っていたのに、閲覧半ばにしてカジノについて書いている。

役雑、マフィア、ギャング、文法はなんでも良い。それがスコセッシの使う文法なんだったら、それは当然楽しくなるだろう。 ぼくはそれまでそんな映画なんて見たくもなかったし、実際ジョー・ペシの関わるシーンはガチで目を背けることも多いけど、今のぼくなら言うだろう、必要なシーンであると。

ただ、ぼくのマーティン・スコセッシ経験がなまじあるだけに似たような感覚で見られるこの1995年映画に対する心の準備が完璧なだけだったのかも知れない。つまりカジノを受け入れるための必要条件がぼくの中に完璧に揃っており、そうじゃなければマーティン・スコセッシのこともジョー・ペシのことも二度と見たくない生き物として心に刻まれてしまっていたのかも知れない。

ぼくはかつてシャッター・アイランドを見、その後なにやらマーティン・スコセッシという人を認識することなくタクシー・ドライバー、ディパーテッド、アイリッシュマン、監督・出演者が語るアイリッシュマン、グッドフェローズ……と見ているうちにマーティン・スコセッシ個人を認識することになった。

実際カジノの元締めであるタクシー労働組合トップの役柄はアイリッシュマンのアル・パチーノそのままだし、そこにおけるパチーノとデニーロおよびペシとデニーロの関係、さらにグッドフェローズにおけるデニーロとペシの関係(順番が重要だ)こそカジノにおけるデニーロとペシの関係だといえる。普通見る順番は逆なはずだ。カジノはアイリッシュマンよりずっと前に造られたから。

だからカジノを見たという経験を引っさげてアイリッシュマンを見たらまた違ったんだろう。だってジョー・ペシに抱く印象は270°ぐらい変わるはずだ。アイリッシュマンのジョー・ペシは決して狂犬ではなく、気が利く爺さんだ。

この構図は北野映画を彷彿とさせるとぼくは思った。ぼくは日本で唯一役雑(やくざ)映画として受け入れられたのは北野武だけだった。北野が全世界で評価を受けたのはこの同じ俳優(スコセッシにおけるデニーロ、ペシ、北野映画における北野)を使いつつも、読後感がまるで違う(ただ一定の虚しさ、儚さみたいなのは図らずもどちらの読後感としてあり、得難いものであり、彼らの人生のテーマなのかも知れない)文脈がスコセッシによって開拓されていたと捉えられるかも知れない。

ただ、北野は場面と景色を散りばめて信じられない説得力を叩き出し、スコセッシは状況描写を欠かさず熱心に散りばめるというような違いがあるため、別に一緒やねんとか言いたいわけじゃない。続きを見たい。

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中村風景
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