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「好き」を隠して生きていこう

小ぎたない恋のはなしEx:18話「『好き』を隠して生きていこう」

前回


僕は自分の「好き」が投影できない趣味を虚しく思う。果たしてそれは趣味と呼べるのか。

それは夕闇の中に無垢な想いが溶け込んで消えていくような秋や冬の下校を思い出させる。僕はその頃恐らく何も考えてはいなかったし、横には苗字を思い出せない、「るな」がいたことだろう。

自分の想いが投影できない、偶像を崇拝するという趣味において例外的に自分から発出させられることができるものは金銭だけだ。

しかしながら無条件に金銭を投じる行為とは、なんの見返りもない投資と同じであり、少なくとも自分にとっては非生産的だ。

偶像を応援するという行為は「商業のフレームワーク」が体良く「ふんわりとした愛情みたいな疑似性に満ち溢れたオブラート」として「好き」の感情を勝手に包んでいるだけに過ぎず、eコマースが持ち合わせている優れた近未来的マーケティングへ人類が緩やかに敗北したことを示している。

それと同時にマーケティングという商業的行為が、決して生活者の便益を図るために設置されているのではなく、単なる金銭搾取のために悪用されているに過ぎない現実を僕は嘆く。

さっきも考えたように僕らは「好き」と言っているだけでは許されない。かつては許された。今は好きを周りに表明していかなければファンとしてすら認められない、市民権を与えてももらえないらしい。

周りに好きなことを表明して、推薦して、同じ金づるを育成しなければならない。言わばCtoCのナーチャリング行為が平然と偶像崇拝の過程に組み込まれてしまっている。もちろんそれはB(Business)側が周到に仕込んだ罠だ。

僕らは偶像をただ愛しているだけじゃ不十分だとされ、金銭投与を強いられており、SNSを使ったプロモーションに加担しなければならない。

緩やかな金づる育成ファームがSNSを通じた同調圧力の中に組み込まれている。もはや自動化された商業的フレームワークだ。偶像を愛したが最後、合法的に・必然的にマーケティング活動に加担し周りを巻き込まなければ生存できない、マルチ商法も一目置いてくれそうな心住まいだ。僕らはゾンビか何かになってしまったのだろうか?

それは低俗なマゾと何が違うのか。単に僕らは「好き」という気持ちひとつだけを持っていただけなはずなのに、ファンマーケティングのいばらに絡め取られたら一体そこには何が残るのだろう?

裏切りという名の正気度について僕は思う。僕はずっとそれがなぜ永遠に継続しているのか不思議で仕方なかったが、宗教も洗脳もファンマーケティングを取り入れたからこそ生き残って来たのだろう。

自ら名誉や尊厳をなげうつ行為について僕は思う。帰って来れるのだろうかと僕は思う。何もかなわない世界で当期純利益をすり減らしていくだけの行為を趣味と呼んでしまったら、いつか泥棒も人殺しも正当化されてしまいそうで僕は頭がおかしくなりそうだ。

かなぶんが電車の窓にあたって、僕は正気を取り戻す。電車の空調音を突きぬけて、町の蝉の声がする。

僕は何かを訴えかけて回ることについての虚しさを思う。一日中陰謀論に囚われて生活している人の生活は果たして本当に生活と言えるのか。それは生活ではなく、ただ盲目的に命令に従っているだけなのではないのだろうか。宗教の皮を被った詐欺集団を信じている人たちの生活と何が違うのだろうか。

ただ刑法だけに従って生きることを強要される受刑中の囚人と何が違うのだろう。これこそが囚人のジレンマの正しい意味なのではないだろうか。囚人のジレンマと呼んじゃいけない、恥ずかしいなら囚人「化」のジレンマでもいい。

感情だけは商業に奪われてはいけない。感情だけは商人に操作されてはならない。


次回

▼謝辞

(ヘッダ画像をお借りしています。)


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中村風景
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