絹江にパンはデジタル芸なのか?
ZAZYを優勝させたくない不文律が業界にはあるのだろうか?について考えています。ヘッダ画像をお借りしています。
体当たり芸の定義から受ける旧時代のパッション営業感
ZAZYの決勝における結果を振り返ります。
(前回「そもそも審査する体制について評価できないレベルの不備がある」という主張の文を書いている筆者視点からすると、本件について触れなくても良いかも知れません。不備があることについての主な原因は性別が男一色であったところ、など)
結果的に、ZAZYは2/5の確率で認められ、3/5の確率で認められなかった。
審査側にいる投票券を持つ者三人はもしかしたらこのように思ったかもしれません。
「そう来ちゃうのか。じゃあZAZYには投票しないよ」と。
芸能とは、21世紀まで文明がすすんでなお、「体当たり」でしか表現・達成してはならないらしい。少なくともこの投票結果からはそう読み取れなくもない。
ハリウッドザコシショウ(以下ハリウッド)の芸を見れば彼が身体一つの体当たり芸を価値観として大切にしており誇りに思っていることは疑いようがなく、彼にデジタル芸をやれ、と強要する気なんてもちろんない。
そしてそれを転換する必要があるとはぼくは思わない。これからもその芸風で問題なく生きていくべきである。非常に素晴らしい芸である。
ハリウッドにいちゃもんをつける理由こそないものの、体当たり、の意味するところは非常に曖昧であり、審査側の良いようにぼかされているとも言える。玉虫色だ。
「パッケージング」が許されないのか?YouTube芸がTVプログラムに持ち込まれることは屈辱的なのか?
ただ、この場(R1)で必要なことは「ソロで人を笑わせることに長けた人」を選ぶことであるとぼくは思っています。そこにはデジタルだろうが裸一貫だろうが関係ない。いずれも同等に評価されるべきである。
もちろん全員の本心を尋問してまでたずねなければ、あの場では「デジタル芸が評価されなかった」のか、「デジタル芸というだけで評価を落とす羽目になったのかどうか」なんてわからない。別に明かされなくても良い。
しかしながら、TVモニタの前の人々を笑わせるということについて視覚的にも聴覚的にもあれほどわかりやすくパッケージングされた(皮肉にも吉本手動の番組作りと似通ってしまってはいますが)芸はZAZYにしか表現できなく、また至上のものであった。
「たとえ目の前の観客でなく、モニタ越しの視聴者ですら同様に笑わせるためのパッケージングが完了した状態ですよ、ZAZYは」というものです。
キャメラマンのパンに些か左右されるという不確定要素さえ除けば、ZAZYひとりだけでもあの数分を支配できたのではないだろうかと思わせられる。
ZAZYはtoCビジネス(C=視聴者)を見事に体現しており、審査側というtoBに配慮する必要などない、といえるのではないでしょうか?
次回は絹江にパンの本質について。お読みくださりありがとうございました。