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正しい歌グループの組み方について考える

仮想空間に生きている身ではあるものの以前楽器を演奏するチームを組んでいたことがあり、それについてかなりの後悔といいますか、申し訳のほうのなさを感じている。ヘッダ画像をお借りしています。

あそこでやらなかったことをすべてやっておけば正しい歌チームが組めるんじゃないかと思うほど。ぼくはb-andという単語がなぜか恥ずかしくて言えないので書かないが、一般的にそれらのことだと思われても仕方ない。

歌グループとかチームとかいうほかない。でもチームが一般的呼称になったら、今度はそっちを嫌うのだろうなということもなんとなくわかる。

だからアイドルのきゃぴきゃぴ的なそれではない。そんなものの組み方など異次元過ぎてわからない。でも結局場当たり的に歌で売りたい人とか身体で売りたい人とか(売春ではない)が暫定的に組まされてんじゃないのかなと想像してしまう。そういう方々を好きになれたことがないので

じゃあ歌のグループはそのような場当たりがないんだな、と言われてしまうと言葉に窮する。とにかくぼくはその都度あまりに傲慢が過ぎていた。もっと周りのみんなと一緒に歌を作るべきでした。

といいますかそれが結論になってしまいますね……子供の過ちとかで片づけられるのかもしれないが、そこでPDCAをどうにかしないと、そりゃそうなるでしょうよ、と誰もが思うことだろう。

ぼくはあまりに自分の歌を愛しすぎていたのだろう。完成形が見えすぎていて、固定化、保守化していた。柔軟に思った以外のコードを載せたりソロを載せることに寛容になるべきでした。じゃなかったらDTMになるべきでした。

自分が信頼した相手だから一緒に組んでいるのに、保守的思想で歌を作ってたらその相手がいる意味が30%ぐらいしかない(30%はある、と思っている時点で、ぼくはまだそのしょうもない執着から脱却できていないのかもしれない。0%と言い張れなければならないのかもしれない)。

化学反応という単語も手垢がつきまくりすぎて使いたくない(歌における他者同士の楽器の組み合わせ方を、たしかに化学反応みたいに捉えることはできるけど別ベクトルの感じに思えてしまう。この別ベクトル感がなんなのかはさっぱりわからないが、そこが理解できていたならこんなことにはならなかっただろう)。

のだが、この相手……細かくといいますか、あられもない言い方をしてしまえばそれまで聴いてきた歌の影響をどれだけ思いっきり受け、それが当該オリジナル歌の出力にも出てしまうその都度の相手に対し、「それでいい」を求めるつまり信頼がグループを組むことの意義であると考えられなければ、離散してしまいそうですね。

つまり歌とは、ぼくがどれだけ思い入れを持ち手塩にかけていたんだとしても―――――所詮は叩き台でしかないと思わなければならない、という結論も今持っている。それが嫌なら上記の通りDTMだ。

多くのグループがコンポーザ名こそ個人名だが、編集名はグループ名にしている部分がそれを示しているのだろう。なんなら、コンポーザ名をグループにしているのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTであり、BLANKEY JET CITYもペピンでそのようにしていたが、後期浅井健一のソロおよびAJICOでカヴァーした際のクレジットは詩と歌どちらも浅井健一になっていた。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの場合は歌自体を全員での一斉演奏で探り合うように、といいますかまずは個人が叩いてて気持ちいいフレーズを勝手に弾き始め、別の楽器が引きたいフレーズを後追いで載せてき、歌にしていくものだった。だからちばの負担はものすごい(コード進行だけある歌に、後から歌のメロディを載せるなんて恐ろしい負担だ)ものだったと思うのだが、そしてそれも限界に来ていたのかと勝手に想像してるが、それは今あまり関係ないのでまた以下と合わせて話したい。


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中村風景
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