撤退テレマカシー
題名が思いつかなかったため椎名林檎がつけそうなCDタイトルシリーズにしました。本題はジョン・ウィックについて。
ジョン・ウィック3を観たら、2と同じかそれ以上に1で築き上げた遺産を食いつぶしていた。
1はあまりにも完成していた。2以降のとにかくジョナサンを不幸にすればええんちゃうみたいな造りとは少し違った。
2以降のそれがしたくて、初めから1を創っていたんじゃないかとは思いたくなかった。
2が駄作なセオリー
それは子供の頃、映画について話す大人たちが「1は良かったんだけど2以降創ったら終わりだよねw」みたいな話し方をするのを聞いてて、映画というエンターテインメントを趣味として持つこと自体は何か羨ましいと思って履いたものの、ぼく自身は映画の良さみたいなものはよくわかっていなかったけどそのような上から目線で何かを分析する人みたいになるのは痛々しいと思っていたためです。
未だに映画を趣味としてどうの、みたいなのは自分で言うには痛々しく感じてしまう。他人が言う分には人に話せる趣味として相応ですね、と思える。趣味はなんだか「好きなんだから極めなきゃならへん」然としたプロフェッショナリティがある気がする。
人には、人に話せる趣味と離さないほうがいいだろう趣味があるんじゃないだろうか。
撤退テレマカシー
ともあれジョン・ウィックにはその轍を踏んでほしいとは思わなかった。
しかし今はその全てが2以降のジョナサン痛めつけのためだけに存在しているように思えてしまい、ぼくは悲しみに襲われて居ます。
ネオとモーフィアスが好きな人向けに、その2人の俳優をわざわざキャスティングして、3の終わりで絶望の淵に落としたのではないか。
ジョナサンの相棒となる女がジョナサンに何らかの恨みを抱いていて(前回の冒頭で殺された、正確にはジョナサンに殺されるとわかったから自死した女の人の縁戚者?もっと明確に話を紡ぐべきだ)、自分の目的のために便宜を図ってもらおうとするがいかにもインパクト重視でいきなり発泡してきたり、結局共闘したら、罪もなく武器でもあるその女の飼い犬が殺されたり、いたずらに話の中身に暴力性を叩き込むだけで、ユーザのストレス耐性テストでもしたいのかという造りになっていた。
すべてがマーケティングである。マトリックスの人気者を使い、痛めつけ、したらファンが楽しむんじゃねえの?3以降のスポンサーも確保できたしやるだけやってやろうやw的な。
次回はなんか別の映画について書きたい。お読みくださりありがとうございました。