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錦鯉のNIRVANA性について

これまで意図せずして渡辺にスポットを当てたnoteを書いてしまっていた気がしますが、別にぼくは彼の何を知っているわけでもなく、勝手な想像で物事を書いているだけです。

言い訳をするならば、それだけ錦鯉の二人から伺える友情について思わずにはいられなかったからかもしれない。ぼくが彼らの歳になった時に同じような思いやりを友達に抱くことができるのだろうか?そこまでの友達がいない人生は幸せなのだろうか?

……どうしても渡辺にスポットを当ててしまう理由はやはり優勝が決まった直後の彼らの行動からです。

そちらは当該noteを観ていただければわかることと存じます。

やはりどうしても、

錦鯉のフロントマン

は長谷川です。

前回も述べたように、のりのり雅紀のような自己紹介芸は自分を覚えてもらうという目的を遂行するために非常に強い効力を発揮します。

錦鯉はそれを自分たちの知名度を押し上げるきっかけとなったM1(2020)で芸の中に盛り込んだことで、どこへ行ってものりのり雅紀が求められる環境を造り出せたように思います。

観客が求めるものが自己紹介なので、自分たちを印象づけることができてWin-Winですね。ただ、渡辺の名前を覚えてもらうことは難しいように思える。

そして、レーズンパンは見た目で損してる、あるいは上記一連の内容が盛り込まれたCR雅紀を演じることが公の場で求められることが非常に多かったはず。つまりフロントマンの長谷川にばかりスポットが当たり、上記リンク先noteでも書いたように渡辺は場の空気が変なことにならないように注視するだけです。

スキンヘッドと類まれな眼光、本人にしか出来ない奇妙な動作、そして大きな声は長谷川雅紀が努力して手に入れた唯一無二の芸能であり、才能でもあるはずです。

ここにはNIRVANAのボーカル・リードギターであったカート・コバーンめいたものを感じる。

コンポーザとして恐ろしく大衆にぶっ刺さる歌を創り、レフティギターを持って歌い、額面通りCDを単に再現するだけのステージなんてすることなく、同世代やさらに下の世代を熱狂させ、グランジというジャンルを創生してしまった。死んだことを美化することはぼくは得意ではないのですが、死んでなくても唯一無二の人だった。

渡辺にはNIRVANAでいえばドラマーのデイブ・グロール

めいたものを感じました。自分の本流であるNIRVANAがなくなってしまった後は、メインの武器さえをも持ち替えた。

さらに自分がコンポーザとなり、Foo Fightersを結成してギターを持って歌った。

渡辺も演芸エンターテインメントという場ではなく、趣味であるバーチャルYouTuberの世界にコメンテータのような形で関わるようになり、確実に地盤を造っている。これは上記リンクで述べたことでもあります。

NIRVANAは、世間に恐ろしく受けたSmells like teen spiritという歌をあまり演奏する気が亡くなってしまいました。どこへ行ってもそればかり弾かせられるからであり、めちゃくちゃなアレンジをしたり無理やりメジャー調にして演奏するみたいなUKロック的文脈の反骨精神を持っていた。

錦鯉の場合、コアなファンではない観客に求められうることはその知名度を上げるきっかけとなった2020年のCR雅紀・レーズンパンは見た目で損してる・のりのり雅紀だと思います。つまり錦鯉にとってのSmells like teen spiritは上記の一発ギャグです。実際に優勝インタビューでも、写真撮影で「何かやれ」と言われてのりのり雅紀を披露している。

錦鯉はきちんとした反骨精神を持っている

しくじり先生のような過去(2021年)の番組における彼らの発言を見ればわかりますが、このような芸能の道を目指すに当たってかなり尖っていたことが伺えます。

特に長谷川は今の芸風からは想像もつかないシュールさを全面に出していたらしく、人と同じことをしても何にもならないと考えていた。

そして渡辺の極端なエピソードとしては23歳前後でほとんど紐のような生活をしていた。河川敷の少年野球を毎日飲酒しながら観察して、自分だけのオリジナルスターティングメンバーを造っていて我に返った。

つまり一度大衆に受け入れられた芸とは、それが自分の芸であるにも関わらず「第三者の中で勝手に想像された芸」となってしまった状態である。

自分の芸でありながら、他人と共有されすぎて自分のものなのにうんざりしてしまう。NIRVANAのSmells like teen spiritであり、RadioheadのCreepです。

錦鯉は2021M1では、2020年の使い回しをしなかった。強いて言えば一回目の漫才は合コンが舞台だったため、自己紹介として利用できるのりのり雅紀は使いましたが2020年のそれとは文脈がまるで違った。

「のりのり雅紀をしてしまう人」として長谷川を奇人であると演出することに使われた。「去年と同じと思ってくれるな」「2021の貯金を使うだけの男たちとは思ってくれるな」という気概を感じます。

そして結果的に、2020年のCR雅紀の面影を見せようとはしなかった。それが芸事のプライドであるなら、プライドで結果を残したことになる。

もちろん錦鯉をNIRVANAと同一視するような失礼を言うつもりはありませんし、NIRVANAの方法論で成功したとお話するつもりもありません。

本当に自分たちの実力だけで勝ち取ったNo.1だったと思います。

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