砂漠の真ん中に立ってるカジノでバイトしたくはならない
映画カジノの感想を書いています。この映画は長いという特徴があるっぽいけどぼくは観ている間マジで微塵も長いと感じなかった。ヘッダ画像をお借りしています。
テーマはやっぱりカジノでギャンブルでマフィアといいますかギャング……日本で言えば役雑でしょうか。その点で北野映画を思い出すけど情景や情緒はまた違ってどちらも良い。
前回も触れたけど(前回は観てる途中に書いた)、マーティン・スコセッシの映画とは暴力を切り離せないはずだ。だってカジノの冒頭がまず主人公の死だし、カジノがあるベガスはカジノ周辺地帯だけ安いから買い叩かれてギャンブル場ばかり建ち(当時)、周りはなんも発展していないどころか建物すらなかった。つまり砂漠だった。
賭け事と何も関係ない砂漠がなぜ映画の冒頭で引き合いに出されるか。それは殺した後の人間を処理するためにうってつけの場であると視聴者に説明するためだった。つまりこのカジノで面倒事を起こした奴は容赦なくぶっ殺されるし、そういう展開があるんだろうなと思わされる。
もしぼくがマーティン・スコセッシを好きじゃなかったら、ロバート・デ・ニーロとかジョー・ペシとかの顔をある程度認識できていない状態だったら普通にもう二度とマーティン・スコセッシを観たくならないんじゃないだろうか……と思えるほどの暴力性だ。
このことを踏まえて砂漠を意識すると、途端に砂漠という舞台装置についての恐ろしさの質が変わります。それまではがらがらへびとかわけのわかんねえ自然現象とかとにかく人工物じゃないものが怖い。単純に直射日光だの乾きで死ぬとかが「起こりそうな」だけでもじゅうぶん怖い気がする。
だが、ここで怖いのは砂漠すら欲望のために利用する人間でしょう。舞台装置としての砂漠はジョン・ウィックとかにも出てくる。(↓別に読む必要はありません)
でもこれは砂漠に本拠地を置く妙な一族にジョナサンが会いにいかなきゃならねえみたいな非常にどうでもいい舞台装置としての使われ方でした。
SHERBETSの歌にBabyGunという歌があります。これは割とグローバルに政権批判とかだったり民族批判みたいなことを直喩でしている歌だけど、メロティとギターリフが信じられないぐらい素敵である。浅井健一からしたらどうでもいいことだろうけど、周りのすすめでシングルB面にしたんじゃないかなと思う。A面にするのは怖いと。
でもA面だったBlack Jennyでも丘に放されたかわいい小鳥を白人がひとつ残らず撃ち殺したみたいなことを唄っているのでもっとどうでもいいかも知れません。
BabyGunの上記のような思想が及ばない部分では(考えるとChorus部分ではそのような思想が出てこない、Black Jennyではあらゆるところに出てくる)砂漠の真ん中に立ってるダイナー(レストラン)でアルバイトしたいぜという歌われ方がされています。
映画カジノではカジノをとりしきるエース(デニーロ)のもとに、地元の権力者のバカガキが職を得ようと潜り込んできます。これがどのような理屈かと言いますと、何やらエースのいるカジノは後からやってきて商売を始めたんだから、もともとそこにいた連中の言うこと(=儲かってるなら地元民の能無しなガキに食い扶持を与えろ)は聞かねばならないらしい。
だから権力者も無能なガキも、人死にがそこまで簡単に起こる(=人死にが簡単にばれないという保障があるから簡単に起こせる)場所で働きたいと思えるというのだ。
これはぼくらがカジノ周辺のこの暴力的な構造を知ってしまっているから命知らずなバカだと言ってしまえるのか、親の愛が深いことを示しているのか……だけどこの処理もスコセッシにとってはカジノの舞台装置のひとつに過ぎず、カジノの衰退を表現するため、エースの権力の失墜といいますかカジノが潰れるまでの有力なエピソードとしてのみ存在するのかわからない。
だってこのカジノは、非常に複合的な理由で潰れるのだ。それを書ききるのにやはり3時間という長尺は必要だし、その描写も鮮烈だから3時間あろうとどうでもいいのだ。ぼくらは砂漠の真ん中にあるレストランでもカジノでも働いてはならない。