手からしか伝えられない
ぼくは軽々しくnoteの題材として扱っていいか迷っています。でも何かを褒める文なら書かなくても書いても良いような気がする。誰かを貶すなら書かないほうがいい。ぼくは今から何か良いものを讃えようとしている。
お借りしたヘッダ写真はカバー株式会社の二次創作ガイドラインに準拠した借用をしています。
アイラニ・イオフィフティーン
これはアイラニ・イオフィフティーンというYouTuberが記念のライブで見せたパフォーマンスの話で、歌を歌いながらその歌を手話でも歌った。
ぼくは手話が読めなく、さらに今回披露されたのは海外圏の言語をベースにした手話だったと思うので、当該手話のレセプターではなかったのですが、これには一言では言い表せない思いが詰まっていたと思えた。
もしかしたら、歌いながら手話でも話す人はいるかも知れないし、近年アイドル化が目覚ましいYouTuberの世界なら踊りながら歌うみたいな本業アイドルみたいな行為は珍しくないとか思われてしまうかも知れない。
(個人的には、踊りながら歌うのと手話しながら歌うのはまた大きく違う、比べるべき分野ではないと思っています)
また前提としてインドネシア文化圏の方々に特化した方であり、インドネシア語、英語、日本語がある程度話せるというトリリンガルだったりする。そして絵がかける。
物事を伝えるには何かを使って出力しなきゃならなく、口や手とかの身振り、紙に書かれた絵や文字とか出力するためのメディアと出力先デバイスが必要だったりする。
文字特化型のメタバース(箱庭)文化が好まれている(気がする)
SNSの普及とかで、人々の日常は「半メタバース化」してると思います。流石にメタバースそのものとまでは言えなくて、軽くバーチャルを含んで文字に特化したメタバースと言えるんじゃないかなと思えます。
といいますか、むしろメタバースという単語は都合が良すぎて個人的にあまり使いたくないので、以下でもメタバ…と言っていたら「箱庭」あたりに置き換えてください。箱庭とは疑似体験ができる小さな現実/仮想空間のこと。
折しも昨日は、人々は2020年以降娯楽に箱庭としてのメタバースを求めつつある、その兆しが好まれるペットの傾向、新規リリースゲームジャンルの傾向から見て取れるんじゃないかな?みたいなnoteを書きました(現ページの下方に最隣の日付に飛べるリンクがあります。昨日のは左側です)。
いずれもインターネットを介したり、携帯やゲーム機みたいなデバイスを通じたアクセスでたどり着く箱庭ですが、このように現実じゃないどこぞに、まるで吸い込まれるかのように知的生命体がその行き場を見出している。
つまり文化の潮流をそこら辺に求めつつあるわけですね。斯様な結論(けつろんとか言うほど大層に打ち出すつもりはありませんが……)に至る2020年以前から実はアイラニさんのような仮想YouTuberは台頭していて、2020年以降のいわゆるこんな感じのニューノーマルになると、仮想世界の住人はその仮想性をより生かさないと逆に行き場がなくなってしまうんじゃないかみたいな不安があった(かもしれない程度の想像)。
言葉の出力先
アイラニさんも仮想存在なので、日頃何かを伝えるには口で何か喋ってPCや携帯のスピーカーから聞いてもらう必要があった。他には絵を書いたり字を書くこともあったでしょう。
だけど多分、仮想存在である我が身を人間主体の世界へ向けて出力するにはちょっとまだ該当する技術が甘いのか、上記に挙げたアウトプットは割とできるんだけど手話となるとこれがしづらい。
手話とは手だけでなく指先の繊細な動きまで使って話すことになるため、人間のYouTuberですら着ている服の色に気を使ったり、1080pの画質が見れる環境じゃないと正確に伝わりづらかったりするんじゃないでしょうか。
これは自分の意見を補強できないかと思って話したぼくの邪推に過ぎません。
仮想存在を出力するための技術にはLive2Dみたいなものがあって、それは姿かたちを見せるにはかなり適しているんだけど、指先の繊細な動きが表現できるかと言えば事実上存在しない気がする。
でも、耳が聞こえない人はこれまでアイラニさんの「声」が聞こえなかったわけです。映像空間では自動文字起こしみたいな、不完全な音声認識によるあまり正確ではない文字が現れたりする程度で、絵を見せるなら絵を見せるなりの準備とかが要るから多分毎回絶対にできることでもなかった(だろうと思っています)。
それもこれまでは手話を見せられるメディア・デバイスがなかったから。3Dの体を持ったことで、ついに今日(昨日)それができるようになり、アイラニさんは好きな歌を耳が聞こえない人にも届けられた。
ぼくはアイラニさんが歌い始めた瞬間に、この「届けられなかった」期間である数年間を想うしかなかった。もちろん全くのゼロの情報しか届けられなかったなんてことはないでしょうけど、直接当該レセプターへと「伝える」ができなかった。
自分が伝えるデバイスを持っているのに伝えられなかったこれまでの期間を思うと、ちょっと口や言葉では申し上げられないほどの悔しさなり、あらゆる表には出さない感情があったことだろうと考えるほかない。
アイラニさんは手話とともに歌い始める前に「やりたいことがある」と言った。
というのも全部想像でしかない。こんな重く捉えるのはいい迷惑な気がする。ぼくらは勝手に感動して、勝手に物事を意味づけてしまうので気をつけようと思いました。文の合間に挟んだSNSの書き込みは、アイラニさんの友達や先輩たちです。お読みくださりありがとうございました。