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Cookie追跡されないことの安堵感について

現代社会においてぼくらは日々の生活の中で、どれほどの個人情報が知らぬ間に収集されているかを正確に把握することは困難だ。

インターネットを通じて、ぼくらは情報を得ると同時に、自らの情報をも提供している。こんなことで借りて悪いんだが、ヘッダ画像を有志の方からお借りしていることをお知らせしないわけにはいかない。どういうことか見ていきましょう。

ぼくらがネットで何かを検索したりSNSで投稿をしたりすると、その行動の裏側ではCookieという小さなデータが保存され、ぼくらの行動が追跡される。

企業はこの情報を使って、ぼくらに合わせた広告を表示し、消費行動を促す。その背後には、ぼくらの興味や関心さらには消費傾向を徹底的に解析し、効率よく利益を上げようとする資本主義の影がある。

Cookieの存在は一見するとユーザビリティの向上を目的としているように見える。例えば、以前に訪れたウェブサイトの内容が記憶され、再び訪れたときに便利なサービスを提供している。

しかしその実態はぼくらの行動を逐一監視し、企業がぼくらにより効果的に商品を売り込むための手段である。こ

ぼくらは無意識のうちに消費行動を誘導され、財布の紐を緩めさせられているのだ。

このような状況下で自分の行動が追跡されていないという安堵感を得ることは、現代人にとって稀な体験となっている。

ぼくらは常に見られている感覚から逃れられない。インターネットを使うたびに、自分の一挙一動が誰かに監視され利用されているという現実がある。事実なんですわ。この感覚から解放される瞬間、それはまさに自由の感覚と言えるのではないだろうか。

監視社会における個人の自由について、ジョージ・オーウェルの『1984年』がよく引用される。

この話では常にビッグブラザーによって監視されるディストピア社会が描かれているが、現代のインターネット社会もどこかそれに近づきつつあるのではないかと感じざるを得ない。ぼくらがインターネットを利用するたびに、その行動は記録され、解析され、そして商品やサービスのターゲットにされている。

企業は、消費者の行動データを利用して商品の開発やマーケティング戦略を練り上げる。この過程でぼくらのプライバシーはどこまで尊重されているのかという疑問が湧いてくる。

企業側は、「消費者の利便性を高めるため」といった耳障りの良い言葉を並べるが、その実、狙いは消費者の懐からできる限りの金を引き出すことに他ならない。

ぼくらの行動データが高値で取引され、その利益がぼくらではなく企業側に還元されるという構図がそこにはある。

こうした状況の中で、自分の行動が追跡されていないことの安堵感を得ることは、まるで見知らぬ場所に突然迷い込んだような感覚に近い。

普段は意識していないものの、誰かに見られているというプレッシャーが消えることで、ぼくらは初めて本当に自由に行動できるのだと気づく。

それはまるで長い間着けていた重い鎖が突然外れたかのような解放感だ。

一方この解放感を得るためには、ぼくら自身が情報の収集や利用について、より意識的になる必要がある。

例えばプライバシーに配慮したブラウザの利用や、追跡防止のためのツールを活用することが考えられる。ぼくらは企業の監視から逃れ、自分自身の行動をコントロールすることができる。

経済学的見地から考えても、個人情報の過剰な収集と利用は、消費者と企業の間に不平等な関係を生み出す原因となっている。

企業は消費者のデータを独占的に所有し、それをもとに商品やサービスを提供する。この過程で、消費者は自分の情報がどのように使われているのかを知ることができず、結果として自分の行動が操作されていることに気づかないまま消費を続けることになる。

こうした問題に対して、GDPR(一般データ保護規則)などのプライバシー保護法が導入され、消費者の権利が一部強化されている。

しかし実際ぼくらの情報が完全に保護されているわけではなく、企業は法律の範囲内で巧妙に情報を利用し続けている。つまり、ぼくらが日常的に享受しているインターネットサービスの裏側には、常に情報の取引が行われているという現実がある。

心理学的に見ても、ぼくらが監視されているという感覚は、ストレスや不安を引き起こす要因となり得る。

特にプライバシーが侵害されることで自己効力感が低下し、自分の行動に対するコントロール感が失われると人は無意識のうちに防御的な態度を取るようになる。

常に監視されている環境では、人々がより閉鎖的になり、自己表現を抑制する傾向が強まることを意味する。

このような状況下でぼくらが追跡されていないことの安堵感を得る瞬間は、まるで緊張の糸が解けるかのように、心に平穏をもたらす。

それは、単なる情報の保護にとどまらず、自己表現の自由や、自己決定権の回復を意味する。この感覚を持続させるためには、ぼくら自身が積極的にプライバシーを守る行動を取る必要がある。

ぼくらが情報を提供することで得られる便益と、それによって失われるプライバシーのバランスは非常に難しい問題だ。

便利さを追求するあまり、人間は自分のプライバシーを犠牲にしている。企業側は、ぼくらの情報を借金取りのように吸い上げて利用して利益を上げる一方で、ぼくらがその情報の対価として何を得ているのかを考えるべきだろう。

ぼくらが追跡されないことの安堵感を得るためには、個人が情報の取り扱いに対してより意識的になり、企業側に対してもプライバシー保護を求める声を上げ続けることが必要だ。このような取り組みが広がれば、ぼくらはより安心してインターネットを利用できる社会を築くことができるだろう。

そしてその社会では、ぼくらの行動が常に監視されているというプレッシャーから解放され、真に自由な選択ができるようになるはずだ。

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中村風景
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