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受け皿としての深夜ラジオ然とした会話について

YouTuberの尾丸ポルカさんがChillChat(他愛のない話)形式でライブ配信していたのを聴いてて、なるほど~と共感して思いつくことが色々あったので書いておきたいと思っています。

していた、といいますかこのnoteを書き始めた時点ではまだお話をしている。そのため当該部分を巻き戻して聴けないため、完全に話の整合性が取れているか自信はありませんが、少なくとも本人を下げるようなネガティブなことを取り扱いたいつもりはないためそちらについて……と思ったら終わってしまったため情報源をそちらにしながら書いています。

概要としては

・小中学校の教室って仮にいま訪問したらめちゃくちゃ狭かったりするみたいなことと、
・小中学校さらに高校となると生活空間が狭すぎる=コミュニティが狭すぎるため、ひとたび他者からいじられたりして、それが嫌になった場合いじりがいじめになる、コミュニティが狭いから往々にして個人がどうこうできる範囲を越える可能性が高い
・コミュニケーションの一部として本人がどう思っているかわからないけど面白くいじってやってるみたいな光景を見るのが無理というかいじりとして下手すぎワロタ

的なことです。もちろんそれが全てじゃない。1.5hある中の一部です。

パーソナリティ

尾丸さんはなにも深夜帯のラジオみたいなYouTube Liveばかりしているわけではなく、オールマイティに行動しているという特徴があると思っています。

オリジナルやカバーの歌を製品としてリリースしたり、YouTuberには珍しくガチ目な番組形式のレギュラー放送(プレミア配信で提供)まで持っていたりする。

10~20分単位の単発ムービーを毎日のようにリリースするのはYouTuberの常ではありますが、こちらは構成作家とかの制作班を持った形である。たまに外部とかからゲストを呼ぶこともあったりするため、あまりそういった話はしたくないですが人件費だの時間だの単発ムービーに比べて比類ないコストがかかるように傍からは見えます。

で実際にゴールデンタイムのゲストに呼ばれたりもする。

昨今ではYouTuber出身の人が地上波テレビに出演するのもさして珍しいことではないため取り上げるまでもないのかも知れませんが、他にも普通にゲームに課金して散財したりお金を別に遣わなくても何時間もゲームで遊んでいる姿を中継していたりと、とにかくメディアにおける行動範囲が広く、その種類が多い方なような気がする。YouTuberがテレビに出まくりみたいなのはフワちゃんを見ていればもはや普通であるように思えます。

上記の話もリスナーの投稿が元だったりするので、オールマイティにメディアに生きる彼女を見て相談したくなったりするのでしょう。

果たして大学は淋しいのか

上記概要はそれぞれが独立して話されたって感じじゃなくて、起因とか帰結みたいに相互作用がある。

高校のコミュニティが楽しかった人は大学や専門学校、つまり進学先でクラスの概念がなくなり、居場所が消えたように感じるらしい。あえて誰が発信したかについてはぼかし始めます。悪く言ってしまえばコミュニティ依存になるでしょうか。

でもそれはその進学先に対する目的がある人にとっては関係ない……というと見捨てた感じになるのでそういう意味ではなく――――――意に介すべきことではない。目的や対象物について学ぶ、研究するならば別に一人でやるしかない。

人手が要るなら研究室に舞台を移せばいいだけであり、研究室ではアカハラが最近ではめちゃくちゃ多く取り沙汰されてはいるため脳死で安心はできませんが、研究室ならニアイコールとまでは断定しづらいもののクラス感を多少なりとも得られなくもない。

余談ではありますが、概要にもあったいじめという概念について、ぼくはこの単語はあまりに加害者側の軽薄さを示しすぎていると思っています。

つまり意味合いとしておままごとに近い感、軽薄さがある。いじめってやられている側からすれば迫害であり、差別です。つまりいじめなんて可愛らしい言い方じゃなくて、迫害、差別と言ってその犯罪性をもうちょっと白日の下に晒し、加害者側の当事者意識のなさを浮き彫りにする必要があると感じます。

もう少し話を飛ばすと、17歳のカルテという映画がありますが、

――――――17歳のカルテの重大な内容ばれを喰らいたくない方は5行ぐらいスクロールしてください――――――

中盤で、若きアンジェリーナ・ジョリーがつとめる重度の精神疾患を持つキャラクタが冒頭からともにいる仲間の一人を事実上ぶっ殺します。事実上と言いましたが物理的に殺すのではなく、日頃からその子にアンジェリーナ側から投げかけていたとんでもない言葉の数々によって自死に追い込むというもの。自死の直前にはおよそ人間なら言わないであろうことを言います。これは い と じ と め から構成される、なんともお花畑感のある単語では形容できない事例だと思う。普通に犯罪です。

――――――17歳のカルテ引用終わり――――――

大学以降の最小行動単位とは?

どちらかといえば企業における単位としての部署が研究室に近いでしょうか。各教授の部屋ひとつひとつが企業における部署であるというイメージです。あるいは3年生時から解禁される演習(ゼミ)。

ただ、そうなるためには「ただ勢いにしたがって進学しました」程度では甘いことが多い。最も今は100%オフライン授業を解禁する学校は相当の条件が揃わない限り実現不可能ではあるはずなので、否が応にもクラスという単位は分断されるのがもはやスタンダードである。

つまり現代の新1、2年生は大学生活開始の瞬間、言ってしまえば合格通知を受け取った瞬間から孤独がぴったりと寄り添っている状態、孤独が確実に保証された状態といえます。生活において必ず孤独が保証される場面てあまり思いつかない。つまり「お前はどこまで行っても一人なんだよ」と常に言われているような、それなりの絶望があるように思えます。

高校までの生活で、「何をするにも行動の最小単位がクラス」であったことに息苦しさを感じていたのであれば大学は非常に気楽である。つまり並んで体育館に行ったり注射されに行ったりみたいなことに参加しなくていい。

大学では健康診断を受けないのであれば放って置かれるだけです。なによりも年度初めにどの授業を受けたいですと申告して受理されるというセレモニーを経由しなければ、学費を払った意味がなくなる。籍を置いている意味がなくなる。

専門と極め

だからそもそも「ぼっち飯」みたいな言葉が自分の発言として生成される時点で、なにか目的を間違っている可能性があるんじゃないかと思えた。ぼっち飯という言葉はコミュニティ依存を求めるから発出されうるためです。

この理論が通ってしまうと、全ての授業どころか大学生活がオンライン化してしまった今の大学1~3年生は決して孤独を感じている場合じゃない、どころかオンラインを孤独と思えてしまうのであれば、自分が選んだ専門性、領域に問題があるのではないかという答えがまかり通ってしまいます。

高校を出たら孤独が強いられて当たり前、という結論がぼくの中にあったのであれば、上記のような「現代の大学生はあまりにもきつすぎる」みたいなnoteは書かなかったでしょう。

つまり高校を出たら孤独がスタンダードだと押し付けたいつもりはなく、とはいえ興味がある部分について知識を補うことで極めに近づこうとする行為は楽しいはずであるため孤独を気にしている場合じゃないとも言えてしまい、ここに二律背反がある。

この受け皿となるのが深夜ラジオなのかも知れない。もちろんその時間帯や局、人により年代もちがければ何から何まで違うだろうから、なにも深夜ラジオの役割を大学生の悩みの受け皿に固定しているわけではありません。

そしてその深夜ラジオで何かしらの答えは出せなくてもその行き詰まりに寄り添うパーソナリティも、専門性を有しておりなにかを極めた結果あるいは極める過程にある存在なのかも知れない。

高校から次の段階へ進学するにあたり、これまでに述べたような急な人生においての身の振り方について社会から突きつけられる様子をぼくも理不尽に思いますが、それをいかに回避するのかについて考えようとするとこの2倍ぐらいの文量が必要になるので今回は以上で……

個人的に救われたのは当時1stシングルのHello, morningをリリースした当日、2018年のサンジャポにアイさんが生出演した話を覚えていたことでした。奇しくもテレビとラジオという対比があります。

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中村風景
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