君が望む庭園
新聞に漫画が、とりわけ意味不明な漫画が掲載され続けていることは何を示しているのか?について考えています。
子供向け文学への整合性
いま取り上げている漫画はののちゃん。隣の山田くんシリーズの派生と言っていいのか、現在の本流という扱いをすべきなのか?わりと無声映画的な趣で話が展開することもあるが、おばあちゃんが奇人であったり、ステレオタイプの親父とそれをいなすのか付き従っているのかよくわからない関西おかんが狂言回しとして機能しているという前提をある程度読者が知っていないと読者はついていけなくなりがちになってしまってもおかしくはない。
話は逸れますが、このおかんの属性が話の都合によって左右されるのは非常にサザヱ然としている。
ぼくはnoteで好き嫌いをはっきり書かないようにしているため、せっかく打ち立てた自分の考え方に反しますが、サザヱ本人が全く好きになれない。理由としては話によって性格がことごとく書き換えられてしまっていると表現できるほど行動に説得力がない、その行動が矛盾していても何の説明もなく、話を書いている脚本同士がアジャストメントしておらずダブル・スタンダードが平気で蔓延した状態であるため。
子供向けアニメに整合性を求めてはいけないのでしょうか。しかしながら、アンパンマンがカバオを救わない日が起こり得てしまうことは全く想像がつかない。アンパンマンにはそういう矛盾を孕む可能性が感じられない。
サザヱや波平は日によって言っていることが違います。いま思い出せないので単なる悪口みたいになってしまってますが、かつおの悪知恵を異様に褒め散らかすことがあれば徹底的に叩き潰そうとする場合もある。これをシナリオ都合と言わずしてなんとする。
ただ、調整役のますをだけは一貫して全てを許す存在となっているかも知れない。入り婿ではないのに完全に入り婿の扱いを受け続けながら、その待遇に文句1つたれないで義理両親の機嫌を取り続け、義理兄弟の伸びしろを評価し続け、家族を愛している。
長谷川町子が昭和の頃かいていた漫画を資料で見ると、かなりブラックもブラックであることがわかります。比較しようがないため、あまり矛盾があったかどうかまでは認識できていませんが「ババアがミスコンに出んな」みたいな風刺を書いていた気がする。
もちろん氏が現代に生きていたら現代に生きていたで、その溢れがちなコンプライアンスムードを巧みに読み取り、漫画にアウトプットしていたかも知れない。たらればであるため言及は避けますが、TVアニメのそれと長谷川町子の漫画(奇しくもこちらも新聞連載だったようです)が同一品質・性質だと断定するのははばかられるということだけは解る。
予備知識なしで脇役をどう捉える
さらにはたまにのの子や山田のクラスメイトとかにまで話は言及するため、予備知識が多くて越したことはない漫画ともいえる。
というところでお読みくださりありがとうございました。続きを是非またあした……